2019夏イタリア紀行〜プロローグ。辻邦生の追憶〜

「男は度胸、女は愛嬌」という色紙を卒業生一人一人に下さったのは、僕の学習院大学時分の指導教授であった。いただいた瞬間は学部の卒業生など年若で経験が追いつかないから、「はい。そうですか。」という程度の感慨しかないが、こうした年長者が自分の体験からひねり出した格言は、あとあと納得できることが多い。

ちなみに、日本史をやる人間で戦後外国に出るという人間は希少だが、指導教授は、フランスにサバティカルの経験をお持ちで、フランス行きの際は、学習院の先輩教授でもあった辻邦生先生にお世話になったと話されていた。だから、僕も、1999年に亡くなられている辻先生との間接的な接点の一つをそこに感じるのである。

今となっては、この格言の度胸愛嬌というのは、極めて日本的でありイタリア的でもある感性であると感じている。そして、これこそを、これを欠くフランスで僕は求めているのだと思うのである。

それは、薄いガラスのような心で、それを守るためにプライドの高いフランス人に、愛嬌があればね。と常々思っているからである。

日本人やイタリア人の自尊心というのは、我々両民族が、地震を起こし温泉を生み時に噴火する火山の土地と太陽に育まれていることもあり、武士や騎士が自己の名誉を傷つけられた時に、初めて怖いぐらいに噴火してフレアするような赤い火山と太陽のようなものである。

しかしそれでいて、火山とマグマの間や太陽のコロナのようなのりしろがあって、そのために自虐ができ、人にからかわれても、マグマや太陽の核に突っ込んでこない限りは、ある程度許容して笑っていられるというゆとりのある自尊心である。
そのため、その地層やコロナの分だけ愛嬌がある。
そびえ立つ火山や輝く太陽からは、こいつに何をしていいか、何をしてはいけないかが容易に見てとれる。
火山も太陽も、こうした悠々とした寛大さの中に強大な自尊心を埋め込んでいることを見せつけている、という意味で攻めの自尊心である。そして、攻めの自尊心だから度胸もある。

フランス人の自尊心というのは、安定したプレートで、太陽なく風も吹かないような大地に育まれているだけあって、むき出しの薄いガラスのように極めて脆くしかしその分鋭利である。

人がそのガラスを凝視したり、ちょっとでも触ろうとすれば、反撃してくる。自虐もなければ、友達とからかい合うことすら文化の中に存在しない。それ故に、愛嬌がない。
そして、このガラス同士は他のガラスとの反射で傷がつかないように牽制し合っている。つまり、牽制というのは、常に他者と自己を比較して、他者を妬んだり、悪く言ったりするし、自分の短所は努めて見せないようにしている。すなわち守りの自尊心である。守りであるから度胸はない。

例えば、親しい日本人・イタリア人に面と向かって
「お前ほんとに酒ばっか飲みやがってアホか。」と言えば、
「いやいや。これは参った。アル中でござい。アハハ。」と返ってくる。
これをフランス人にやると、
「アホとは何だ!お前だってそうだろ。そんなこと人に言うか?お前だって〇〇の短所があるだろ。」と、激怒して自己防衛に走る。

だから、フランス人との付き合い方で、おちょくりは難易度が高いので余程の仲でない限りは避けた方がいい。

ハゲのフランス人は自分をハゲとは言わないし、おちょくるつもりでハゲなどと言えば、冗談でも友情が終わると言う心構えが必要である。デブネタも同様である。

また、女ったらしキャラでふざけているジローラモや、助兵衛や呑兵衛といった、罵られることを前提としておふざけをやるお調子者のような人間は日本・イタリアにはいても、フランスには存在しない。

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