不自由がもたらす近現代の終わり

不自由なフランス

先日、フランスの大御所歌手、Michel Sardou(ミシェル・サルドゥ)が「現代(のフランス)を憎む」と表明した。

「何もかもが嫌いだ。自由が一切ない。70年代80年代は違った。」
そう彼は言う。

「haïr」という動詞は極めて強い憎悪を表すものだから、普通は使わず、「嫌い」程度なら「ne pas aimer (don’t like)」、「めちゃくちゃ嫌い」と言いたいなら「détester」を普通使う。そのため、人との会話の中でも、haïrが使われることはほぼない。

この往年のスターは、日本で言えば晩年の津川雅彦のように、右派芸能人のドンであって、発言をすれば叩かれ、彼を嫌う人も多ければ、よくぞ言ってくれたと思っている支持者も多い。

そして、彼がこんなに強い口調をしてまで、「現代のフランスが憎い」と言ったのは、その不自由さにこそある。

私もこの21世紀のフランス社会に7年も身を置かせていただき、実に居心地の悪さ、不自由さを、日々の生活や言論の中に感じている。メトロや電車で爆音で音楽をかけたり、タバコやマリファナを車内で吸い出す者がいても、誰も注意できる時代ではない。
社会の諸問題に関する議論は、決して表ではできない。解決策には結びつかない偽善的なこと以外は言ってはならない空気があり、そのため、皆口を閉ざし心の中に社会への不満を鬱積させる。
それ故、残念なことに、ネットの世界に極端な怒りを持つ人間が匿名で溢れかえる。

私にとってはこの折角のフランスへの永きに渡る遊学は修行でもあり、存在したかはわからないが、自由で伸び伸びとした古き良きフランスのかけらもない、この21世紀フランスの独特の息苦しさの中で、何とか新鮮な空気を取り込める窓はないものか、思索する日々でもある。

この大御所歌手だけではなく、少し前までのフランスを知っている30代以上ぐらいのフランス人なら、多くの人が昔のフランスは違ったと言う。

私とて戦前の永井荷風先生・九鬼周造先生の時代や、戦後の辻邦生先生の時代にフランスに来ていたなら、こんなにフランスを批判的に悪く言うこともないであろうし、彼らの著作を見るにつけ、「いい時代を謳歌されているな」と、羨ましく思ったりもする。

学習院の70過ぎの40年選手の古株のパリの先輩はかつて私に、「昔は、パリの人は動きも穏やかで、みんな挨拶を交わし、時の流れも緩やかで」と、かつての古き良きパリを懐かしんで語ってくださった。
だから、きっとほんの少し前までは、フランスは社会の底から素敵な国だったのであろう。

嗚呼、革命以来自由を最大価値として重んじているフランスにあって、そして議論に長けた人々であるフランス人の社会をして、今のこの不自由さは何なのだ、あまりにらしくないこのフランスの現状には、フランスに育てていただいている外人たる日本人として心が痛い。

そして、フランスの最大友好国日本も、まさしくフランスと同じ歩みをしており、自由はない。

日本でもフランスでも、言論の自由は失われ、陽のあたる健康的な表の世界がシャットダウンし、匿名的で無責任で陰湿で不健康な裏の闇の世界が社会のメインストリームを創り上げる世界へと転換を果たそうとするこの場面に身を置けば、いよいよ産業革命以来の機械化社会が一応の発展の限界をみせるのと同時に、フランス革命がもたらした近現代の思想や理念の主である平等や自由は死に、近代以後の世界が終わると感じる。
次の展望はなかなか見えないが、近現代が虫の息であることは、鈍感な私でもわかる。

しかし、自由や平等を標榜した近代以降の世界をこんなにも不自由で、身分社会時代以上の不平等をもたらし、人々を苦しめたことに際して、政治家やメディア・言論人・学者の責任は重い。

政治家は功利主義に走り、メディア・言論人・学者は反論者にレッテル貼りをして潰すことで反対意見を封じ、自己批判はせず、気づけば革新的であるはずの自分たちが体制派と化す。こうした、政治・言論・学問世界の成れの果てのお粗末な堕落が、こうして、図らずも近現代を殺すのである。

そして、目下フランス社会の不自由な言論の最大テーマは移民問題である。

表では議論されないこの問題も、欧州議会議員選挙の蓋を開ければ、移民排斥主義の極右とされる政党が勝利するように、不自由なテーマであるが故に、正しくこの問題に対処する議論を深められないままに、未熟な状態で人々の不満と憎悪を増幅させてしまっている。

今回はこのフランスのタブー中のタブーである移民問題を一例に、フランスに生きる異人たる私の眼差しで、フランスの断末魔の不自由を考えてみたいと思う。

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