フランス人の礼儀 〜わたしと・犬のアレと・生徒と。みんな違ってみんなイイ?〜

しかし、悲しい。フランス国家も泣くであろう。

こういう身だしなみだ、お座りだ早弁だチュッパチャップスだということは、大学の教師の指導の範囲を超えている。授業中に、勉強をしないで、チュッパチャップスを食うのは、自由とか人権とかそういうことではない。

「自由・平等・博愛」も結構だが、人間がともに共有しなくてはならない社会というものの中で、この三原則を吟味しないから、独りよがりのお題目として暴走し、おかしな社会になるのだ。

家庭教育はどうなっているのだ。

そして、この国は、非常識な人間が、正当性を求めて裁判に訴え出ることがよくある。

例えば、授業から追い出したりすれば、学生登録をして、授業に出る権利がある人間を追い出したということで、人権侵害で教師が訴えられることがある。

あるいは、落第点をつけても生徒が不服だと、大学上層部にないことないこと言って、大騒ぎになったり、裁判もある。事例がいくつもある。

故に教師が萎縮している嫌いがある。丸く丸く何事もなく、という事なかれ主義の、大学現場になってしまっている。

でも、僕は、尻込みはしない。尻が小さいから、込める尻がない。

僕とて、不出来の人間であり、人に説教を垂れるようなキャラでもないし、資格もない。
それでもあまりに無礼なことが起きた時、大学現場においてもこれを野放しにしすぎるようであれば、いいことはないと思う。

生徒とは、常々対話しているから、僕もいつもしくじっているし、彼らが若気の至りで、同じようにしくじっても説明するチャンスは与えているし、この仏の世川をして、注意され、落第点がつけば、そいつが騒いだとて、周りの生徒も納得するであろう。
勘違いだったら笑うが、そのぐらいの関係は生徒たちと築いているつもりである。

こうして、フランスの教育現場では、フランス人教師とて、日本人教師とて、教員は頭を抱えることも多い。

さる学習院の先生が、「教育とは忍耐」と仰せになったが、まさか、私が、そんなつまらないことで、教壇から叱りつけなくてはいけないとは思わなかった。
自分を幽体離脱して眺めてみれば、国立パリ大学で、マリオカートで怒る世川祐多。チュッパチャップスで生徒をつまみ出す世川祐多。
勘弁してくれ。これじゃドリフのコントじゃないか。「もしもこんな教員がいたら。」

もっと、こっちも叱咤のしがいのあることで、怒らせてくれ。

実に、フランスの教壇は楽しいこともありますが、忍耐であります。

ある教鞭を取っている友人は、フランス人の指導教授から、「すべての人は救えないから、そういうならず者は見捨てろ」という旨のアドバイスをもらったそうな。

フランス人は人に構わないから、対話なんかしないし、すぐに捨てる。

しかし、日本人は庭訓往来などの往来物で文字を習い、藩校寺子屋でお師匠さんと語らう文化だから、生徒と問答はすべきである。

社会からの疎外感が、社会への反発に繋がったりするわけだから、どんなに無礼そうでバカっぽい生徒でも、一回ぐらいは話を聞いてやってもいいと思う。

だから、僕は生徒と問答してワンチャンスはあげる。

そうすると、うつ病ですとか、実は父が脳梗塞になってとか、家庭問題とかがあるから、態度が悪くても一度は寄り添ってしんぜる。

ただし、理由もなく行儀の悪い卑しい奴は、点を引く。初回に言っているのだから。

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