フランスで外人として生きる。その差別と区別の境。(後)〜研ぎ澄まされるアイデンティティ〜

研ぎ澄まされる日本人としての意識と江戸

九鬼周造は足掛け8年に渡る欧州経験をして、近代日本の大哲学者として大成した。そして名著『いきの構造』で、「いき」という吉原遊廓に発したとされる日本の美や精神を検証した。

永井荷風もアメリカとヨーロッパの滞在を経て、墨東に住みながら死ぬまで江戸の粋人として自己の確立を試みた。

この二人は、かつての日本人である江戸の人々がなんと粋で鯔背であったかを悟り、九鬼周造は芸者上がりの妻を後妻に迎え、永井荷風はエロスに邁進した故に、特に荷風なんぞいやらしいエロオヤジのイメージで語られることもあるが、実際彼らはフランスで女にモテたそうだし、その理由は、彼らが日本人たることを洗練する中で、エロスも含めて西洋人にはないものを持つ素敵な大和男として覚醒したからに他ならない。

ではなぜ、二人が日本のエロスを探求したかといえば、性にも開かれて「いき」であることこそ、日本人本来の持つ特徴だからである。

例えば、江戸時代には春画あり、同性愛あり、遊郭の粋あり、離婚再婚妾腹あり、武道よろしく色道という色事の道あり、日本の性は自由闊達であった。これが明治以降に入れ墨も含め西洋から野蛮と思われないために禁止されて蔑視されるようになり、地下文化となる。

僕なんかは江戸の町人よろしく、ヤクザだけでなく、日本の彫り物を一般人がいきの文化として楽しんで保全すべきだと思うから、そろそろ江戸の粋を取り戻すためにも入れ墨解放運動とかがあっても良いのではないかと思っている。大麻は日本人は吸わないけれども、本草学的には江戸時代には医療用として食べることもあったから、ジャンキーにならない程度に日本人が食べる分には良いと思っている。

かたや、なぜか性に開かれ男女平等社会であると日本で思いこまれている西洋は、カトリックに基づくタブーやしきたりから解放されるために努力せざるを得なかった歴史を持つ。そしてそれは未だ道半ばであり、フェミニズムや性・婚外子・内縁・離婚・シングルマザーやLGBTなど様々な解放運動を通した解決が目指されている。そして彼らの夢の時代は非常に江戸と似通った文化であったカトリック以前の古代ローマや古代ギリシアの時代となる。江戸や平安を好むフェミニストなんかもいる。

とはいえ、今尚西洋では女性は男性より賃金が低かったりと社会的地位は低いままであり、レイプも日本の比ではなく横行する。LGBTへの差別も尚苛烈である。

我々思考する日本人は、こうした西洋の平等・自由を叫ぶ建前に反し、内部がその真逆を行く矛盾を見聞し考える。すると、日本の真の文化や真の日本らしさがあった時代は、身分制社会ではありながらも、権力や富が身分別に振り分けられ、人々がある程度の人間らしい自由闊達さを保った江戸に行き着かざるを得ない。

例えて、江戸には町人文化が花開いたなどというが、町人という民衆から文化が花開くというのは、雁字搦めの身分制の中で貴族が富と権力を独占したヨーロッパでは起こり得ないことである。

ようやく最近になって黒人という民衆というか人種というか被差別階級から、ゴスペルやJazz・レゲエ・ラップ・ヒップホップなどというものが出来たが、黒人がなぜ入信するのか僕は理解に苦しむキリスト教や、西洋人の楽器やマイクやレコードなどという白人のものを使って生み出すから悪いのかもしれないが、しまいにはこうしたブラックカルチャーも白人に吸い上げられて白人的文化の一つとして包摂されてしまう。

このため近現代に西洋に住むということは、逆説的に日本人が日本を思考する時に江戸の魔力にとりつかれるきっかけとして十分に過ぎる。

外国にいることでより一層、茶道や能、歌舞伎、落語、講談、着物ひいては春画、浮世絵などという江戸に完成した日本文化にとりつかれたりする日本人が多いことはそのためであるし、荷風先生や九鬼先生などの色好みは江戸に目覚め、女の深みをより一層追求するというのも当たり前の話である。

自分に引き付ければ、ボトルガムを移し替える先は、樺細工の無紋の印籠である。ピルケースなどというしゃらくさいものは使わずに渋く印籠。プラスチックとは違って地球に優しい印籠は現代における使いようも様々であり、こうした日本の用の美というものは技巧に優れデザインも美しく、気づくフランス人はすぐに気づいて「これ何?」と聞いてくる。あるいは、身にはなっていないが一時帰国した際に石州流の武家茶道に世話になったり、昔の祖先の習わしに回帰して宝生流の能や笛もやりたいし、願わくば山本流居合術も再興したりと一つぐらいは武道も嗜みたいと思うし、菜園の一つも耕せるようになりたいし、着物も普段使いで着れるようになりたいし、日本の美しさへと実践を伴い回帰することを心底から願う。

こうして私が西洋にいるからこそ、江戸という純日本世界に惹かれ、なんとかこの美点を現代に活かしながら未来に日本を繋げられれば良いと思うように、西洋に身を置くことは江戸時代の上に成り立つ日本人としての自意識を深化・先鋭化させる。

世界史の必然をして、西洋近代化せざるを得ず、あの時代に乗り遅れた国はすべからく植民地化され辛苦を舐めたから、やられる前にやるという露骨な帝国主義の時代にあって、大日本帝国という過渡期を今の日本が経たことは否定しないが、今となったら見据える先は大日本帝国ではなく江戸である。

このように日本を離れた日本人が、現代西洋の現実社会を見聞・体験することで、文化精神肉体のあらゆる面において、逆説的に日本人としての自己を、純日本の江戸を引き合いに先鋭化させることは大いにありうることなのである。

これは明治大正の先達も、平成令和の我々も同じである。しかしこのように日本の純粋を求めるようになる人たちにはある条件があるし、その条件の如何によっては、日本人であることには変わりはないが、日本人であることを積極肯定するか憎むかという振れ幅として現れる。

日本の純粋を求める人間は前者である。

カテゴリー: フランスから見た日本, フランスと日本人, フランスの現実, 日仏比較 パーマリンク

コメントを残す