健康診断日本とフランス

フランスには2019年2020年度の新年度がやってきた。
始業式もなければ入学式もないフランスの新年度というのは、新しい年度の始まりを感じさせる明確な知覚を伴う訳ではない。
それでも、大学に新しい顔が一気に増え、教員の入れ替わりがあり、7月8月と続いた夏休みの後に久々の級友との再会に心躍らせる学生たちの笑顔があり、かたや、姿が見えないことから、大学を去ったことが明確になる学生の面々をふと思い出し、新年度が確かに始業したことをゆるやかに感じるのである。

僕はふと日本の新年度の時節を思い出す。

幼稚園は記憶がおぼろげにせよ、小学校、中学校、高校、大学と、新年度には桜が咲き、始業式があり、入学式に向かうであろう人々を街中に見、自分が時にその中の一人となり、そして、健康診断があった。

小学校では校医による検診があり、中高と大学では学校中が検診のための診察室となり、校庭に検診車まで持ち込んだ大掛かりな健康診断が為された。

思えば僕はここ数年健康診断をしていない。

フランスにおいては、大学の新年度に学生向けの一斉健康診断があるわけでもなく、教員向けの健康診断も、我々年季奉公の下っ端には行われない。

フランスでの僕の健康診断はたったの一回、2012年の秋に、初回の学生ビザで入国したことに伴う手続きで、OFII(オフィー)という移民局での健康診断をしただけである。しかしこれは極めて形式的であった。朝早くからパリのバスティーユ近くの健康診断用の庁舎にならび、血液検査も尿検査も検便も心電図もない、極めて町医者の問診的なものとしての健康診断であったから、血液や尿などの値がどうのこうのということに関して、僕の体は、少なくとも7年以上吟味されていないことになる。

だから僕は、体の成分を分析するという近代的な健康管理の為されていない前近代的な自分の体に自我を宿していることになる。
具体的に言えば、僕は今、自分が糖尿病なのかも、小さな癌があるのかも、もともとの低血圧が悪化しているのかも、一切知らない。

そこで僕はふと自分の死について考えた。

死というものは、癌などの疾病により、自分の死の到来が近いことを予測しながら訪れることもあれば、事故死や突然死、自殺という形になることもある。

しかし、この後者3つを除けば、日本は特に、勤め人なら勤め先、退職者なら役所から、ほぼ義務のようにしょっ中健康診断で体の状態をチェックされ、できる限り健康で長寿に、そして、万一病に倒れてもできる限り寿命を伸ばそうとする社会である。

ここまでの健康診断社会ではないフランスで図らずも長く暮らしたことで、僕は、こうした、寿命を伸ばすために、日頃から半ば強制的に管理される日本の健康管理の在り方から意図せずに抜け出した。
そして、自分は、パスタをこねるようにして、まやかしで伸ばしに伸ばした現代的な寿命ではなく、健康診断もしなければ、手術もしないという純粋な寿命を全うしてみたいなとふと思ったのである。
完遂できるかはわからないにせよ。

前近代の日本において「人生五十年」などと言われていたのは、誰もが知るところである。

そして、もし健康診断をせず、手術や病後のストイックなリハビリもしなければ、おそらく現代でもそこまで人間は長生きしないはずである。

体は生きている限り頑丈に元気でありたいから、ジムで体を動かしてはいる。しかし、近代的に健康を数値で管理し、悪いところが出れば手術と薬で対処しながら長生きしたとして、どれだけ頑丈で健脚な人でも、80代半ばが肉体の充実の限度である。

そして、無理に寿命を伸ばそうとするからこそ、現代の日本の老人は、肉体が朽ちていくのに内臓だけがやたらと元気であり、のみならず、今の医学では脳味噌や知力だけはテコ入れできないから、必然的に長生きすればするだけ程度の差こそあれ呆けていく。

一人であちこち歩き回って出かけることは不如意になり、家やせいぜいデイサービスを中心とした生活になる。友達が生きていてもそんなには会えないし、友達はどんどん死んでいく。外界との接触が減るから、話題もなくなり、同じ事ばかり言うようになり、若者から疎まれる。

社会においても、「保険料を浪費しやがって」「医者をコミュニティセンターみたいに使いやがって」「薬ばっか飲みやがって」と邪魔者扱いされ、もの言えば「老害」などと言われる。

この現代の老人の在り方を避けるために、健康診断をしないということは、一つの解になるかもしれない。

もし、健康を数値化して管理せず、肉体だけを動かしておけば、運が悪いと長患いするけれども、前近代の人たちのように割に鮮やかにさっと死ねる確率は上がると思うのである。

目下日本では、当たり前のこととして、小学校ぐらいから毎年健康診断をして、子供の頃から健康を神経質に管理する、日本人らしいと言えば日本人らしいきめ細やかな健康管理社会が成立している。
これからの解放である。

フランスはここまでではないから、多少前近代的であるし、身近にフランス人の老人がいないから知らないが、日本人のように薬漬けで、無理くりに寿命を延ばしに延ばそうと、自分の意思とは無関係に強制されているような感じは受けない。

「花は桜木人は武士」と言う。
しかし、現代の日本人は武士を称揚しながら、かたや、寿命を無理に伸ばす社会であり、その事自体、士道からは相当離れた、しみったれたものであろう。

実に理想は、武士ならば堂々と骨太に真っ正直に、そして桜のようにぱっと散ることにこそあれ。

そのために、健康診断からやめて、健康維持は全て自分の感覚にのみ頼り、食と肉体の鍛錬だけに絞ってみたい。ふと新年度にこう思ったのである。

もちろん日本社会に帰りこれに組み込まれれば、健康診断をしないという事自体、限りなく不可能に近いであろう。そうなったら、データの紙は見ずに捨てて、医者の言うことは無視する。そういう人生のあり方も、ある意味武士的でいいかもしれない。

カテゴリー: エッセイ パーマリンク

コメントを残す