孤独とフランス人・孤独と日本人 (下) 孤高とボエームと粋 〜山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』によせて〜

いきのない西洋において、それに近いダンディズムを探すとて、現代西洋においてそれを見出すことは難しい。現代にダンディズムを体現するものはジェームズボンドであり、これは様々の俳優に演じられて来たが、どれをしても、オリジナルのショーンコネリーには勝らない。いきというものの味は九鬼曰く、「甘味と意気と渋味とのつくる三角形」からなる。

全てに落第点のジョージレゼンビー、甘いばかりのロジャームーア、渋みに及ばないティモシーダルトン、渋みにかけるピアースブロスナン、ハードボイルドに過ぎるダニエルクレイグ。007は西洋が求める男の姿を映し出すが、西洋現代社会そのものは、渋みから遠ざかる007の映画史と平行に、ダンディから遠く離れ、渋みのない軽薄なものと化している。渋みのない薄っぺらい人間が、スーツやドレスを見にまとい、紳士淑女の装いをしてみたところで、そうすることは逆に、彼らの中身の無さを匂わせてしまう。

九鬼先生の時代になくて、今にある概念を使ってこの分析を試みるなら、Célébritéが鍵となろう。セレブセレブと風流に欠ける有名人をもてはやすことの多いこと。そして、セレブリテとは高飛車と不可分の関係にある。ダンディの振る舞いを知らぬ人間が、ひょんな事でセレブリテを獲得し、セレブセレブともてはやされるに過ぎないから、高飛車なだけで中身がない。
『選んだ孤独はよい孤独』にも、東京でモデルをして、地元に戻って来た女が、意図的にセレブ風の生活をブログに載せて生活する様が描かれているが、このように、西洋の流行りを盲目的に輸入する日本にも、セレブという軽薄な文化が押し寄せている。
不敬にも申し述べれば、目下西洋は、英国王室をしてこのセレブなる概念に呑まれつつある。セレブが少しずつ、ダンディズムや西洋の雅を侵していく。

九鬼先生は、何も頑なな保守派ではあるまい。日本の文化のさらなる発展のために、西洋からも学ぶべきは学ぶべしと認めておられる。「日本の伝統の匂いをかぐ者」と名乗る九鬼周造が、日本を考えるためにこそ、西洋との比較研究をされたのだ。

ただし、日本人は明治以来、盲目的に西洋に追従し、江戸を忘れ、気づけば今の息苦しい社会の中、自己の文化や先人たちが築いた豊かな生き方に目を向けることもせず、虚しく日々を送る機械に成り下がった。

『外来語所感』で先生は言う。「日本人は一日も早く西洋崇拝を根底から断絶すべきである」と。先生は日本語と日本文化を子供の頃より大切にされた。

京都帝大の同僚で、万葉学者、澤瀉久孝博士が日本人が「〇〇デー」のようにやたらめったらDayDay言うことを皮肉って、「何デー、何デー、ナンデイ、ナンデイ、ナニヲ云ッテヤガルンデイ、日の神の日という美しい言葉を持ちながら何を苦しんでデーなどという紅毛の国のダミ言葉を使うのか」という言葉に先生は賛意を示された。
「平安朝このかた一千年の伝統をだらりの帯に染め出しているような京の舞妓に「オープンでドライヴおしやしたらどうどす」などといわれると腹の底までくすぐったい感じがする。」

拝啓九鬼周造先生
前回帰朝したら、お江戸ではいたるところで、ありとあらゆる係員がコンシェルジュなる意味不明なフランス語の肩書きを名乗らされておりました。名札にコンシェルジュとあるのです。フランス語の辞書には、conciergeは、「邸宅や建物の管理人」とあります。しかし、彼らは管理人というよりかは、丁稚や手代の商売人のようでした。番頭ほど上ではありません。案内人のような者もおりました。我が日の本の言葉がありながら、フランス語を間違って変な日本語にして使って、そんなにかっこいいのでしょうか。フランス人が見たら笑いやしませんでしょうか。
孤高の武士九鬼周造先生よ。身を粉にして、日本人を鼓舞し覚醒させるために、一匹狼に活動する今存命の数名の憧れの先輩がおられますが、今は鬼籍に入る先人の中の憧れの一人が九鬼先生であります。
僕も誰かに金借りて、芸妓でも身請けして、毎夜舞踊を眺めながら、高楊枝を咥え、粋に暮らしたら、少しは頭が良くなりますでしょうか。パリには畳屋もできました。布団屋もできました。芸妓上がりには苦しゅうありますまい。
今度上洛したら先生の面影を探しに祇園へ伺おうと存じます。

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