孤独とフランス人・孤独と日本人 (下) 孤高とボエームと粋 〜山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』によせて〜

2-A 永井荷風

永井荷風は、尾張の庄屋の家に生まれた一種の高等遊民のボヘミアンなんだと思う。
僕の学習院大学の50歳は年上の女性の先輩がパリに長く住まわれているが、永井家の一族のお知り合いであり、荷風先生の話になったことがある。我々は荷風先生が好きだが、永井家では、今となっては、変態で永井家の面汚しのような感じで捉えられているという。
確かに浅草のストリップに通いつめたり、女好きもいいところの永井荷風ではあるが、その正直さは、まさしく粋。本来の日本人そのもの。最期は千葉の市川の終の住処で頓死して見事。
写真から放たれる雰囲気や面立ち、そして文体を見れば、永井荷風の本質にある上品さは必ず伝わるから、決して面汚しではない。ただ、江戸文化に精通し、西洋近代以前の日本人を心がけ、当時の窮屈な日本の中で、孤独に自由を体現したに過ぎない。

日本人はそもそも島国の中にあり、勝手に外国に憧れる習性を持つ。古代であれば、中国が日本人の憧れで、南蛮貿易以降、近世や近代にはそれがヨーロッパへと徐々に移行していっただけの話。浅草は、近代に東京に西洋情緒を醸し出した、当時の若者のあこがれの街であった。日本初の映画館、浅草十二階、ジャズ、ダンス、最初の地下鉄。東京ラプソディーは「明けても暮れても歌う、ジャズの浅草行けば、恋の踊り子の踊り子の黒子さえ忘られぬ」と歌う。戦後は、ムーランルージュに代表されるフレンチカンカンに模して、キャバレーやストリップをつくり、フランスの情緒なるものを醸し出そうとした。ビートたけしは浅草のフランス座から出て、フランスで評価されるまでになった。
永井荷風は、モーパッサンに憧れて、フランスに憧憬を抱き、10ヶ月の滞在経験の後もフランスを愛し続けたから、晩年、浅草に通いつめたのもわかる。

しかし荷風は、あまりにフランスに酔い、フランスを愛し過ぎている。Queenのブライアン・メイの名作で、フレディ・マーキュリーはもちろんパバロッティもイタリア語で歌ったToo Much Love Will Kill Youという歌があるが、Too Muchにフランスを愛する荷風は、Killされて、酔いしれながら『ふらんす物語』を書いていたことは、読めばすぐにわかる。
それは、彼がたった10ヶ月の短いフランス滞在の中で、常に新鮮な眼差しでフランスを眺めていたからに他ならない。街並、音楽、文学、女、常に驚きの連続で、フランスにうっとりする荷風。もし荷風が4年ぐらいフランスにいたら、きっと当たり前の連続に、飽き始めていたであろう。それでも、明治末年の荷風のフランスに対する視点は、興味深く、平成の僕に感慨をもたらす。本来ならば、英国を志したが、日本からのつかの間の脱走先が、フランスになっただけの、フランスをはなから愛さない僕であれ、叶うならば、昔のフランスにだけは行ってみたい。

恍惚の中の荷風は、それでも一定の距離を持って、フランスを見ており、これは彼の孤高の姿勢と、発想力の潤沢さからくる。

「フランスに来て、初めて自分は、フランスの風土気候の、如何に感覚的であるかを知った。夏の明るさ、華やかさに引変えて、秋が如何に悲しく、如何に淋しいか!そして、その悲しさ、淋しさは心の底深く感ずるというよりは、むしろ生きている肉の上にしみじみと、例えば手で触って見るように感じ得られるのである。ドイツとフランスの詩や音楽の根本的に相違するのも、乃ち此処であろう。ミュッセを産んだフランスに、ゲーテは生れず、ベルリオを生じたフランスに、ワグネルは出ない。」
『風土』で和辻哲郎が分析したように、気候が文化や人間性に与える影響は甚大である。
フランスの秋から春先は「明けても暮れても雨である。雲は折々動いて青空が見え、時には薄い日の光の漏れることもあるが、半時、一時間と経ぬ中に、また降ってくる」。実に滅入る。日出ずる国の太陽に不自由しない日本人には相当堪える。日本にありては感じないが、パリで秋から春先に身をおけば、我ら日本人の血潮に遺伝子に、いかに太陽が必要絶対条件のものとして刷り込まれているか分かる。荷風先生も同じに感じられたかと、親近感を抱く。

ドイツに長く住んだ親戚のホルン吹きが、いつもドイツとフランスを比較しているが、クラッシックとか文学のわかる人間は、この隣国同士の気候と文化芸術のあまりの違いに感慨を覚えずにはいられないのであろう。

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