孤独とフランス人・孤独と日本人 (下) 孤高とボエームと粋 〜山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』によせて〜

昭和の初めには、江戸の浮世は、近代化の中に埋もれ、機械のように働きに働く窮屈な日本社会が出来上がっていた。その窮屈から逃れる場は、祇園のような色街である。江戸以前は性に開かれていた日本人も、キリスト教型近代社会の導入により、人間の自然、自由を失い、粋でなくなる。

九鬼先生はこれに抗って、自然に生きたのである。近現代の日本のおかしさや、窮屈に気づいてしまった者の多くが江戸時代を愛す。フランス界隈では、永井荷風、九鬼周造がその代表である。フランスの多くの日本学者も江戸時代が大好きで、僕の指導教授も江戸好きだが、我々が江戸時代を愛すのは、この時代の日本人が自由に生き生きしているから。
僕はまた、社会は体育会系に硬直し、上の権威主義は下を抑制する一方、いざというと権威の側で誰も責任を取らない現代日本社会が嫌いだから、江戸以前の武家のあり方に学ぶ必要があるとも考えている。今の世では、ごますりが上手くしたたかな奴が、同じような上の人間の引き立てで上に登り、悪事がばれると即入院して雲隠れしたり、すっとぼけたり、人に責任をなすりつける。卑しい人間が社会をリードすると、必ず国は亡ぶ。民の幸せを一番に優先し、責任を持てる権力者がいてはじめて、国は安定し、文化は栄える。それがなっていないのなら、普通一揆が起きる。

今の日本の権力側のほぼ全ては武士にあらず、国際人はおらず、国家観もなく、真の誉をしらず、我欲と名誉欲にまみれた小者のみ。命をかけて責任を果たす者はなし。こういう不幸な時代が長く続いているせいで、日本の人々は疲れ切っている。もはや一揆を起こす気力もなし。今こそ江戸時代を、我々全ての江戸の先人達を愛そうではないか。

九鬼周造という、すでに窮屈と化した日本に生まれ、これに筆で抗った、孤独な武士学者をそろそろ見直さなくてはならない。彼の美しい生き方を、ふしだらで、けしからんと明治欧化鍋蓋でとじるなら、日本人がふたたび元気になるチャンスを逸する。春画やこういう生き方こそ本来の日本の粋なのだ。

そして、「いき」というもののいきは、日本の男のみならず、女の内にも存在することにある。九鬼はヨーロッパの「いき」に一番類似するものとして「ダンディズム」を挙げた。しかし、「シーザーとカティリナとアルキビアデスとが顕著な典型を提供するもので、ほとんど男性に限り適用される意味内容である」。僕は大学のフェミニストの歴史の授業なんかにも出たことがあるが、今声高に西洋でフェミニズムが叫ばれるのも、一種の反動であるが、一神教文化は、女を家庭の中に閉じ込め、女は結婚によって処女を失い、夫以外とは生涯肉体関係を持ってはならず、暴力を振るわれようと離婚できないなど、女を虐げて来た文化であるから、したがって、女と男に共通する美をジェンダーフリーに見いだすことはないのである。

しかし、日本のいきは、「か弱い女性、しかも苦界に身を沈めている女性によっていつまでも呼吸されているところにいきの特彩がある」。
どこか影のある女性が美しく、そこに、男の心が触れがちであるのも、そういう女にこそ「いき」が宿ることが多いゆえ。

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