なぜにフランスでは精神病が多いのか 〜4人に1人が精神病のフランス人、陰と陽・チェットかシナトラか〜

無神論とカトリックの人たちの違い 〜フランス人の心の安寧〜

フランス人がどうしてこんな風なのかということを心に見出すなら、それは、希少な存在になったカトリックと圧倒的大多数を構築しつつある無神論のせめぎ合いの中に見て取れる。

フランスの現代のカトリックについては別に論じるが、一部伝統的上流白人フランス人社会にカトリックが多いのとは打って変わって、それ以外の白人フランス人は無神論者が多い。僕の大学の生徒にも、カトリックの人がごくわずかであることは、見た目からもわかるし、話せば一発。

カトリックの人たちは、服装がちゃんとしていて所作言動も上品で、そこは僕は好きです。

また、フランス、とりわけ首都圏では珍しく、保守的でカトリックの街フォンテーヌブローに住んでみて、たまたま市の顧問をやっているカトリックの老夫婦と関わりができて、この奥様が非常に僕によくしてくれている。異教徒で外人の僕に良くしてくれ、世話焼きのいい人です。
それで、色々表ではできない話をしてみると、確かに信者の彼らは、心の中の静穏とともに生きているとわかる。

辛いことがあっても、毎週日曜に教会に行き、司祭の話を聞き、祈りを捧げることで、心の安寧がもたらされている。ブルジョワだから、経済的にもゆとりがあるということもあるだろうが。

世界的にも珍しく多神教の神々と仏の習合で、その根幹には仏教伝来以前よりの神道の多神性により、他者を認める精神性を育まれた日本の風土とは違い、一神教の問題は、自分たちの教えだけが正しいと盲信し、そうであるか否かという白黒の二元論になるから、弾力性に欠けるし独善的であることだ。

また、きっと、神道が天照一神教だったら、仏教は日本に根付いていないはずで、日本人も独善的で神道以外全て外道で正しくないという類の、高慢ちきで発想に乏しく、視野の狭い人種になっていたに違いない。

弾力性がなく独善的なカトリックの教義の問題は、これも改めて論じるが、例えば、自殺はカトリックにおいて罪であり、僕の友人のそのまた友人の父君が自殺された際、息子は司祭に、「君のお父さんは地獄へ落ちます」と言われて傷つき、それ以来、アンチカトリックになった。そして、僕の友達もこれに憤慨してカトリックをやめ無神論者になった。この司祭のために上流階級の子弟である、二人の信者が、真逆に振れたのである。

でも僕には司祭の気持ちもわかる。何千年間も自殺は罪ですとしてきたのに、今一人のイエスに仕える司祭の身で、「罪でない、天国へ行きます」などと言えるはずがない。

だから、このように、ヨーロッパに吹き荒れるキリスト教という一神教への反発も、「神はいるのかいないのかどっちなのか!」、という極端な二元論になってしまう。

人間は困った時には神頼みをしようとしたり、どうしようもないからこそ何かに祈ったりするものだと思うから、科学的な割り切りとは別に、心のよすがとしての、信仰というものは、人間が人間であるという証左であり、人間らしくありたいなら、これは否定すべきではないと思う。
目に見えない以上、いないと言えば神も仏もいない。しかし、いるということにして、まあとりあえず、頼みたい時に頼んでおこうぐらいの、緩やかな信仰心というものは、必要なのではないかと考える。

だから僕は、非科学的ではあるけれども、神様仏様をゆるーく認めて、死んだ先祖は大体の日本人家庭と同じように仏様で、盆彼岸にお迎えもすれば、何かの際にはちゃんと先祖供養したいと思うし、菅原道真公は確かに天神様で学問の神様だし、徳川家康公も我々は神様としても代々大切にしてきた訳で確かに東照大権現様だし、と伝統的日本人のゆるゆる信仰を大切にしている。

こっちで暮らして常々カトリックを卑下する無神論者たちと関わると、彼らは無神論だと言っても、それでも何か心の平安をもたらす信仰を欲しているということは、見てりゃわかる。
つまり、無信仰でいる人間などというのは、いないということなのである。
マルクスが「人は誰も歴史から逃れられない」といった名言を利用すれば、無神論者を見ていれば、精神バランスの維持の為には、「誰も信仰からは逃げられない」という事だろう。

どういうことかと言えば、カトリックの教義に反発して無神論になったような少し裕福な白人たちは、大体動物愛護とか、ベジタリアンとか、シャーマニズムとか、ヨガとか、太極拳とか禅へ行く。しかも、シャーマニズム・ヨガ・太極拳は、教会などという形で宗教として組織化されていないだけで、宗教組織の匂いのない宗教的行為に他ならない。禅とて、仏教だから宗教宗教している一神教と違ってゆるいだけの話である。

しかし、カトリックを離れて無神論者たちが別へ行ったとて、性質としては、一神教独善の歴史と文化の上に位置づく人たちの思想から脱却しない。他を認めない価値観は、簡単には治らない。そんなんだから、いちいち声高に多様性やらとうそぶくスローガンが必要になる。

例として、フランス共和国の有名なスローガン、「自由・平等・博愛」をフランスがいちいち言うということは、言わなきゃならない状況が中に渦巻いているということで、実はそのスローガンとは程遠い世界なんだと自分で言っていることなのである。

このようにスローガンがあれば、それはその逆の状況があるということで、これを掲げる人は大体それと真逆のことをする。なので、多様性などと言う人間は、これを認めることとは真逆に、独善的過激信仰に陥りがちで、動物愛護を信仰するのは、肉屋なんかを絶対悪の人非人として決めつけて、肉屋を破壊したり、シーシェパードと変わらないことを陸上でやる。その口で絶対多様性とか言うなかれ。そして、肉屋も一人の商人というヒト科の動物なんだから、動物愛護の精神で愛してやれよ。

実に昨今の肉屋が気の毒でならない。肉屋の立場は日に日に居心地の悪いものになっている。
最近肉屋は営業中に活動家に罵られたり、社会的に一方的にいじめられているからこそ、肉屋頑張れ。しかし、独善盲信の連中には、言論をしても豆腐に鎹、反撃の仕様がない。
動物を尊重し、その命をいただくことを供養しながらも、肉食をやめず、店をたたまないことだ。僕は日本人だから、最悪明治に肉食が入ってきて以降の現代生活をやめて、江戸時代の人みたいに豆腐食えば、肉なくても生きていけるから、まあいいや。
それか、ベジタリアンのフランス人は豆腐豆腐言っているから、肉屋は「生きとし生けるダイズちゃんの命がかわいそう。口がないから泣くこともできずに。」とかいって、ダイズ反対運動を起こせばよきかな。

しかし、肉を否定することはフランス人が誇ってやまないフランス料理を否定することになるから、笑ってしまう。そのうち肉を供するレストランも過激派にぶっ壊されると思う。
彼らからすれば、焼肉食う奴なんか、人間じゃないでしょうね。

こういう自分が絶対の善と決めつけ、それ以外は悪と盲信している連中は、過激で陰湿で怖いものです。これも彼ら無神論者が嫌う信仰の一つ。ミイラ取りがミイラになるのと同じく、信仰を否定しながら、自分たちの教義を盲信するというものだ。

あるいは、シャーマニズム・ヨガ・太極拳・禅などにハマるのは、自然と人間との一体化を目指したり、瞑想の世界に行く。スピリチュアルの世界で、恍惚に浸る一種の信仰。禅ってそうじゃないと思うのだが。

また、アラブ移民はイスラムだから除くが、逆に下層階級の黒人フランス人たちは、信仰にすがって、結構カトリックへ行ったりするから面白い。自分たちを奴隷にした奴らの宗教に行くということが、僕には理解不能。

しかし、いまやフランスの世の中のほとんどは無神論。敬虔なクリスチャンなんかほぼいない。
皆さんもご存知のように、婚前交渉や同性愛を認めない(これを認めてしまうと、今まで2000年以上に渡る、全てのカトリックの歴史と伝統を間違っていたと否定することになるから、今、教義のために、信者が減っていっているが、バチカンはできないと思う。やったら英断だが無理そう。)、というカトリックの教義は現代と馴染まず、一部の伝統的上流フランス人を除き、ほとんどが無神論かカトリックから遠ざかったフランスでは、心の安寧を持てる人間が減り、あるいは過激なベジタリアンなどの別のストイックな信仰に走るか、あるいは心の拠り所を失って精神病になるか、というかたちで、世の中が陰へ陰へと行くのである。

こういう社会を感じながら生きるって、結構いやなものですよ。

カテゴリー: 社会批評 パーマリンク

コメントを残す