相思相愛で不倶戴天の日本とフランス

では、お互いがお互いに失望する点はどこかと言えば、またしてもこれは伝統との兼ね合いで、消えてしまった伝統にこそある。

ベルサイユのバラなどという漫画が日本で生まれ宝塚の十八番になったが、こんな人の国の昔の伝統的な時代に関連する物語が日本で生み出されヒットした事実は、日本人がどうフランスを見たいかという憧れを秘めている。日本人にとっては、フランス人は王子様のような白人たちが優雅に暮らすおフランスという像があって、それに憧れている人間が多い。

しかし、現実はどうかと言えば、フランスには古き良き優雅な匂いを感じられるものはもはや存在しない。視覚における伝統は残されていても、嗅ぎとれる嗅覚における伝統はほぼない。

共和制社会だから、ベルバラを彷彿とさせる貴族や家柄の良い人たちというのは、共和制体にとってはそんな人たちが表に出てきたら困るから邪魔者に過ぎず、蓋をされるようになっていて表には出てこないし、街ゆく人々の雑多で有象無象の感じや、共和制の国民達の身なりや話し方や所作からして、現代フランスは伝統や品高き風格とは程遠い。

また、封建的身分社会を経た日本とフランスには、世が下って担い手がエセであるというなんちゃって伝統も多い。

日本においては、明治維新以前は武家が公家に憧れ、何から何までモノマネをしていたように、フランスにも旧体制下においては紋章を勝手に付け爵位を詐称する偽貴族というのがいたし、明治維新後は武家が庶民にモノマネされ、今じゃ非武家の方が端午の節句でも仰々しく鎧兜や鯉のぼりをあげたり何につけても武家ぶるように、フランスとてブルジョワが貴族ぶりたがるので、馬術をやったりする。

だから、こうして、伝統の匂いがしそうなものも、うなぎ屋から上がる煙を遠くから見て近寄ったら焼き鳥が焼かれているというようなまがい物に過ぎないために、失望の要因になる。
また、共和制のもと、エリート・ホワイトカラー・労働者・貧困層という近代的階級社会や、移民社会と化したフランスの人種問題を知れば、ベルサイユのバラに憧れるような人は、それとは全く正反対の現状に失望する。

私の場合は、伝統を破壊したなれの果ての社会としてフランスを見聞しているから、態度としては社会科見学の小学生的な好奇心と距離感を保っているが、そうはいっても、現代のフランスのことは残念としか思わず、日本の反面教師であると考えている。

しかし私はなんとかフランスの伝統の香りを嗅ごうと努め、その甲斐あってか私が心から仲良くなるフランス人もまた、やはり本物の伝統の香りのするフランス人である。騎士、田舎の伝統的農家の出の男、人生で唯一出会えた先祖代々パリジャンの本物のパリジャンであられた友達の今は亡きお祖父さん。こういう方々と不思議に知り合うし、とことん話があう。

また、たまたまジャズを介して親友になったエールフランスのパイロットはオルレアン王家の系譜を引く男であり、極めてウィットに富んだユーモアと知性を持つ上質なフランス人である。

今や希少な伝統フランス人はそこらへんの現代フランス人とは違う雰囲気があり、こういう人がもっと現代社会でイニシアチブを取る形で存在すればフランスもまた違っただろうなといつも残念に感じている。
彼らは慎ましくて上品で、富豪ではないがホスピタリティに溢れ、フランス人はケチという事実を珍しく覆すような人々である。ベルバラを期待している日本人なんかはこういうフランス人は好みなのではないかと感じる。

では、フランス人の良いところは何かと言えば、給料は悪いのに、貧困層は無理だが庶民に至るまでしっかりお金をかけてバカンスに出かけ、窮屈な現代社会の中で人間らしさを何とか維持しようと努めることにある。

こういう人間臭いフランス人達が日本に期待するところは、維持される伝統であり、これが裏切られる時、つまり日本人が機械化する現状や日本の伝統が弱体化しているところを感知すると彼らは失望し批判し始めるのである。

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