今どき珍しカトリック美女と語らふフランスの今昔【3】 〜無神論と宗教みたいなベジタリアン旋風の中で編〜

目下フランスにはものすごく無神論者が多い。

 

でも、彼らが人間の所為とは思えず、科学的にも立証できないようなこと。神道に裏打ちされた日本人の感性からしたら、「神ってる」みたいな感性を全否定しているのかというと違う気がする。
ただ、カトリックの教義が現代社会に合わなすぎて、これに拒否感を抱いていて、無神論と言っていることが多いと感じる。

 

僕がカトリックの君に良い言葉ねと言われて嬉しくなっちゃったのが、無神論者は本当に無神論という訳ではなく、Ils essaient de ne pas croire. 【信じないように努力している。】と感じるといった言葉であった。

 

この言葉は、フランス人の無神論者の非宗教形式の結婚式に出たからこそ出た言葉であった。

 

こちらでは、無神論者の結婚式では、結婚式場で、あらかじめ指名された友達が神父のような役割をする。それだけでも、聖職者が持つような重みがない。キリスト教の結婚式っぽいやり方でやるから聖職者の影がちらつくので、逆に胡散臭くなってしまう。

 

しかも、無神論なはずなのに、神とか忠義とか、神父が言いそうな文言がしばしば出てきて、無神論なのにキリスト教を払拭できてないじゃんと思わされるのである。

 

そもそも、無神論なら、宗教を否定するのだから、教会における結婚式のスタイルを模倣してやっていること自体おかしい。
アナーキストが国から生活保護を受けるような矛盾なのである。

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今どき珍しカトリック美女と語らふフランスの今昔【2】 〜カトリックの人の価値観と考えに学ぶ編〜

このカトリックの令嬢は、伝統主義者である。日本人の知り合いなんて僕しかいないし、別に日本語ができるとかそういう訳ではないが、伝統と近代的なものが融合する日本というものに淡い興味や期待を持っている。

 

それもそのはず、ミサに行ったらジジババしかいないのに、今時若者に珍しいカトリックである。ということは、伝統的なものに重きをおく家庭に生まれ、育ったからそうなっているのである。

 

彼女のおかげ様で、僕は彼女と比較しながら自分を分析する。
普通の日本人の多くが、先祖を敬い、家の由来を知っているように、うちも普通にそうだし、墓参りもするし、ここはちょっと珍しいかもしれないが、歴代の当主のおかげで、33回忌でフィニッシュせずに、50年置きの遠忌で先祖の法要も重要視するし、神社にも好き好んで行くしということで、伝統主義者と言える。
時代の波の中で、変わるべきものは変わり、変えるべきものを変えるということも必要と認めるが、人間は歴史の連続性の上に位置するので、古くから続き、あるいは先祖より伝わる伝統的なものに僕は価値を見出す。

 

だから、僕が女にばかり厳しくなる一神教の弊害などを知覚していても、カトリックでもイスラムでも世界宗教として伝統的に存在してきたわけで、そこには敬意を払う。

 

ただ、一神教は、「セックスはいけませんが、レイプされてできた子も等しく神の子であるから避妊も堕胎もいけません」というように、人間の自然の摂理や感情を否定しながら、偽善に走るので僕は批判的にならなくてはならないことも多い。
どうして「セックスは最高だしよろしいですが、女性を傷めないように男は馬鹿だから気をつけましょうね」と考えられないのかな。とか、生まれや趣向は選べないのに、ホモセクシャルは人ではないなどとどうして言えるのかなど、日本の伝統主義者としては、考えられないような教義が一神教には多すぎる。

 

フランスではこういうことに対する反発が主として、無神論者が溢れ、彼らは「神はいない。カトリックなんて偽善だし、馬鹿じゃねえの」と散々ぱら公然と馬鹿にするが、僕には、偽善であることは認めても、カトリックの人たちが御先祖様から家がしてきたように伝統的に生きたい、とする気持ちを無下にすることはできない。
あるいは、性観念以外のモラルという意味では、敬虔なカトリック教徒のように、信仰心のある人の方が、慎ましく、道徳的で、品がいいということは体感として感じる。



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今どき珍しカトリック美女と語らふフランスの今昔【1】 〜どうして現代白人フランス人なのに隠れキリシタンなのよ編〜

またしてもジャズのおかげで面白く美しき女に出会った。彼女は、そこそこ食えていけているドキュメンタリー映画監督で、ジャーナリストでもある。さて、気が合うので、夕食を共にし、あれこれ話をしていた。そして、お馴染みの宗教トークである。我々はもとより好奇心旺盛な人間であることに加え、社会的なことに興味があるから、日仏の比較やフランスの現状を鑑みるに、宗教トークは切っても切り離せない。

 

今回の宗教トークのきっかけは、この夏のバカンスで、彼女が、フランスから陸路歩いてスペインにあるカトリックの聖地サンティアゴ デ コンポステーラの巡礼へ行ってきたという話から始まった。巡礼のことを、フランス語ではPèlerinage【ペレリナージュ】と言い、日本の御遍路とか御伊勢参りなどの訳語にも用いられる。これは今では観光化され、信者でなくてもみんな普通に行く。

 

しかし、彼女はそういう人とは違った。ひっそりと「私カトリックなのよ。信者の仲間内を除けば、あなた以外には誰も言っていないけど。」

 

きた〜!である。僕は外人であり、フランス人の学のある人間は日本人が鷹揚な宗教観を持つことを知っているからの告解である。
しかし、社会では彼女はカトリック教徒であることを、隠して生きている。
なぜ、自由の国フランスで彼女が隠れキリシタンにならなくてはならない道理があるのであろうか?

 

イスラム教徒や、ユダヤ人は、宗教的な事由を述べて、仕事を欠席したり、職務時間中に祈りを捧げたりすることがある。イスラム教徒なら、ラマダン期間中は職務中も信徒であることを隠さず断食するし、ユダヤ人なら金曜の日没以降と土曜日は安息日で、究極には家事をすることも禁忌だから、金曜の夜と土曜日に彼らと何かをしようと思っても、彼らのためにこちらの都合を変えなくてはならない。
しかし、彼女曰くカトリックの人は、私はカトリックなので、聖なる日にお休みを頂きますとか、いついつは宗教で、などと公言することはできず、信徒であることも隠していると言う。

 

僕はなるほどねと思った。
政教分離を建前にするフランスに長く住むと、一瞬の王政復古もあったが、革命以降、公然と反カトリック、反王族、反貴族を旗印にしてきたフランスにあっては、今、人権や多様性、反差別という題目の下で、イスラム教やユダヤ教に関して何かを言うことはタブーだが、キリスト教に対してはめちゃんこにDisって良いという空気を感じるし、事実そうである。
そして、そこにこそ、伝統や歴史、文化に関する現代フランス人の自己矛盾が浮かび上がる。

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フランスとサッカー、フランス人ってなあに? 移民と慈善事業 〜W杯優勝記念〜

2018年ロシアW杯でフランスは優勝した。

 

僕はパリで、フランス人たちがW杯を通じて熱狂的になり、それが優勝で沸点に達するという珍しい光景に一日本人として遭遇した。

 

さて、フランスの代表チームには、昔から純粋にフランス人ですというような、純粋な白人はほぼおらず、ほとんど黒人であったということは、日本人も気づいたであろう。しかし彼らは、呂比須ワグナー、ラモス瑠偉、闘莉王、三都主アレサンドロ、ハーフナーマイクのように、時折日本の代表チームに見られるような、帰化第一世代選手ではない。
フランスの移民の家庭に生を受け、そして、フランスでは黒人ともなれば移民は普通貧困であるから、そういうところからサッカーで這い上がってきた強者ということになる。

 

サッカーのナショナルチーム一つとっても、同じヨーロッパでありながら、移民政策をして移民を長きにわたり受け入れてきた、かつての経済大国フランスと、もとよりヨーロッパの貧困国であり、移民をフランスなどに出しこそすれ、移民が来ないクロアチアとの色彩の差は歴然であった。つまりクロアチアは純クロアチア人のチームなのである。

 

さらに、フランス代表をして、たとえそれが白人であろうと、彼らの多くは移民の白人の家庭の子である。代表選手で、黒人以外の選手だけをピックアップする。

GK Hugo Lloris : スペインカタルーニャ移民
GK Alphonse Areola : フィリピン移民
F Antoine Griezmann : ドイツとポルトガルのハーフ
F Olivier Giroud : フランスとイタリアの血筋
F Florian Thauvin : フランス
D Adil Rami : モロッコ移民
D Nabil Fekir : アルジェリア移民
D Lucas Hernandez : スペイン系?
D Benjamin Pavard : フランス

こういう概要であるから、フランスにおいて、サッカーは移民の人たちの注目を常に浴び、また、選手たちも、自分たちのアイデンティティーに関してよくメディアで発言するように、自分のアイデンティーを背負いながら、代表選手を務めることになる。

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嘘七百のクールジャパン

《迷走「クールジャパン」相次ぐプロジェクト失敗でムダ金に》というFNNのニュースを目にした。それによれば、日本維新の会の清水貴之参院議員が、さまざまなクールジャパンプロジェクトで、経産省所管の官民ファンドから投資された国民の税金が、損失を出し続けていることを突いている。

 

パリにいると、日本で報道されるパリの素顔、パリの日本文化、日本で言われるパリの流行が、嘘八百、ないし譲って嘘七百ぐらいであると感じることがある。

 

少し前は、「パリジェンヌって服5着しかもたないの?」などと日本でよく聞かれたものである。

 

こういう荒唐無稽なパリのイメージが日本で定着しているのは、まずフランスやパリに長期間滞在して、ある程度のフランス語を話し、社会を吟味し、フランスの実情を日本に発信する人が少ないこと、故に現地の実情が日本に遍く伝わっていないことが原因である。

 

情報化社会とはいえ、日本には正確な国際情報は乏しい。今尚、フランスが純然たる白人国家であると思っている日本人は多いし、ヨーロッパが豊かだとか経済大国であると思っている日本人も多い。
豊かというのは感覚的な問題であるが、私の感覚ではヨーロッパは豊かで経済的に大国であるという感覚はない。下手すれば貧困国。逆に時間のゆとりや精神は豊かかもしれない。

 

たとえば、パリとその周辺からなる首都圏イルドフランス地域圏では、それ以外の地域より13%も物価が高い。感覚で、軽く昼飯を食べれば2000円、これにワインやデザートをつければ3000円は飛ぶ。安いケバブ屋でもドリンクをつければ800円ぐらいはする。
それでいてフランス全体の雇われの月給の平均が1637ユーロであるところ、パリのそれは2183ユーロであり、ここから諸々の税金が差っ引かれるから、手取りが20万なんかいかない。手取りで20万とっていたらいい給料、30万とっていたら高給取りの世界である。というかパリにいなければ手取り15万もいかないのだ。

 

この塩梅だから、フランス人はかつかつなのである。無論貯金などできないし、みんなどうやって社会保障手当を受けようか策を巡らせているし、外食は気安くできないし、ということである。



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孤独とフランス人・孤独と日本人 (下) パリで考える自由と孤独編 孤高とボエームと粋 〜山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』によせて〜

1. 孤独と弱みあるいはエロス発露の相関性

Stingは、NHKのSONGSでこう語った。Message In The Bottleで、孤独であることをSOSしたら、世界中の人々から、自分も孤独であるというレスポンスが返って来たと。
学生時分そして、教師の傍、ジャズ歌手をして日々を送り、ドラマーのスチュワート・コープランドに誘われたことで、The Policeを結成し、伝説のロックスターになったSting。Stingの音楽の中には、ジャズやレゲエなど色々な音楽のベースがあり、歌詞もギリシャ神話が出て来たり、高尚で知的で、韻を綺麗に踏んでいるものが多い。かつて、韻に魅せられて和歌や漢詩を研究しているイギリス人に、でもあなたたちにもStingがいるよねと言ったら意気投合したから、日本人やイギリス人は韻を無意識に好む習性があるのかも知れない。
Stingは孤独な男であり、これまた韻をキメているSo Lonelyという曲で、So Lonelyと叫びまくっている。プロモーションビデオでは都営地下鉄浅草線の電車内で口パクで叫んでいる。

 

そういうStingは、9.11のテロ当日にトスカーナでライブをし、Fragileで幕を開けた。その10日後には、アメリカのテロ追悼番組でFragileを歌った。パリのテロの後、閉鎖されていたバタクラン劇場の再開に際しても、Stingがライブをし、Fragileで幕を開けた。Fragileの儚い旋律も、孤独なStingの感性が産んだ名曲。世界史に残るミュージシャンである。

 

Stingは孤独を隠さない英国人。英国人の気質の分析はいつの日かするとして、フランス人は孤独でありながら、それを隠す性向がある。前編で書いたように、女性を中心に、なんとか自己対話して、自分の孤独な現況を幸せであると思い直そうと腐心する。
また、フランス人は自分のFragileな面を見せたがらない。弱みは人に見せない代わりに、苦虫を噛むような顔をして、日々を送る。彼らが、自分の弱さや短所を隠そうとする傾向は、僕が6年来パリに暮らしてフランス人と交わる中で、一度として自虐ネタで笑わせてくれる場面に出会わないことから明らかである。ハゲまみれのフランス人なのに、自分はハゲラッチョチェケラッチョなんて、絶対誰も言わない。歌丸と楽太郎のハゲと腹黒のおきまりのちゃかしあいのようなことは誰もしない。

 

フランス人は太陽に育まれた地中海方面の南部の人を除けば、ユーモラスでなく、根暗で、ペシミスト、得てして皮肉屋。日本の稀代のお笑い芸人である明石家さんまや松本人志があれほどの爆発力を持つのも、辛い過去や貧困の幼少期などを負っていて、それを笑いに変えるたくましさがあってのこと。
フランス人には悲しいことや辛いことを笑い飛ばすような文化はなく、あるいは、親しい人たちで愛ある茶化しあいをして笑い合うこともない。ペシミスティックに孤独に考えて考えて考えて、うつ病になるか、いつもの仲間でネチネチ語り合って、時を過ごす。冗談でも毒づいたりすることは、Fragileなフランス人の心を覆う攻撃的且つハリセンボン的なオブラートがそれを許さない。誰かが面と向かって誰かを批判するようなことは時にあるが、そんなことをすれば、あいつは私を傷つけたとかなんとか始まって、喧嘩、絶交に至る。フランス人は、Fragileで繊細な人たちなのだ。彼らの生命力はそこまで強くはない。

 

また、全体的にフランス人はむっつりしている。エロスも全部むっつり型で、彼らは日本のAVの大きな購買層である。大島渚の愛のコリーダとか日活ポルノとかああいうのを好み、下ネタが大好きなくせに、腹立たしいことにそしらぬ顔をしている。

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孤独とフランス人・孤独と日本人 (上) 勝手にアンサー編 〜山内マリコ『選んだ孤独はよい孤独』によせて〜

自分の近辺の人間に一人、超自由人な男がいる。何にも束縛されず、やりたいことをやり、TDNYPR(ただの酔っ払い)とのたまう。しかし、傍で、人知れず、社会のためになることも楽しくスマートに成し遂げる。話題も豊富だが、決して押し付けがましくない。ふーっと風のように現れ、風のように去って行く。失礼な言い方だが、年齢差は30ぐらいあっても、全くジジ臭くないこの男が、対等な目線で僕と交遊してくださり、色々学ばせていただいている。

 

そのTDNYPRの友達が作家の山内マリコさん。今年5月に、『選んだ孤独はよい孤独』という新刊を出された。話によると、この題名は、フランスの作家のフレーズにインスパイアされたという。先般パリで、TDNYPRと昼下がりからビールを飲んで、フランス人と孤独という面白いテーマを語りあった。そして、これについて勝手に日仏の孤独を考察し、勝手にアンサーすることを約束した。

 

『選んだ孤独はよい孤独』。現代に生きる我々だからこそ、是非読んでみていただきたい。万一つまらなければ、僕の責任で、TDNYPRに金借りて返金します、と宣言したくなるぐらい、小気味良い面白さがあり、そして、人生のあゆみや、現代における人のあり方を考えさせられる。
現代に生きる人間が、「だよね!」と共感したり、「こういうのあるわ」と批判的に冷めてみているポイントが、嫌味なく網羅されている。意図したか否かはしらないが、こういう批評を角が立たないようにするということは、相当難しいことで、そこに作家が作家たるテクニックを感じる。そこまでボリュームはないから、一日で読み終わるが、考えさせられるから、咀嚼するのに時間がかかる。スラスラ読めて、スラスラ読めない、不思議な一冊である。
それでは、いくつか、勝手にアンサーしてみたくなったことを勝手にアンサーする。

 

1.不本意ながらいつもつるむ男

ヨシオという、地元に残り、地元の友達といつもつるんでいる男がいる。ただし、ヨシオにとってこの友達たちは本当の友達ではない。地元に残った幼馴染のグループで、気の弱いヨシオは巻き込まれる形でつるんでいる。不本意なことは彼が一番わかっている。しかし、わかっていても抜け出る勇気がない。

 

そういう人は僕も下町のかつての幼馴染の中に見たことがある。
居心地が悪い中に、身を置き続けるということは、苦痛でしかない。一匹狼になることを恐れず、不本意な環境や人間関係というものに巻かれない強さを持った人間の方が、実りある人生になることは間違いないと思う。そして、一匹狼は、ひょんな事で、波長と価値観が同じ、とてつもなく気の合う人と出会い、融合する機会を得る。不本意に甘んじてはならないことを、再確認させられる。
そして、友情とはなんたるや。フランス人はしょっちゅう、Amitié Amitiéと言ってばかりいる。しかし、本来の友情とは、確認する必要のない感覚であるから、それを確認する時点において、もはや友達ではない。「俺たち友達だよな?」「私たち夫婦よね?」と確認作業を必要とする人間関係になったらそれは破綻していることの証左である。
フランス人を見ていると、「友達だよな」といいながら、大体は学生時代からのいつも同じメンバーとしかいない、人間関係の柔軟性に欠けた人が多い。人付き合いの新規開拓嫌いですか?と思わず問いたくなる。
これは、ひとえに、孤独より、集団でいることの安心感を優先しているからであろう。

 

僕はカウンターマニアであり、それゆえに赤提灯やバーを好む。一人でカウンターにいれば、新たな人たちと会話が始まり、孤独なようで孤独でない、面白い出会いが転がっている。日本人の方が一人で飲みに行く人間は多い気がする。あるいは、色々な趣味に興じるのもいい。たまには良いけれども、毎日同じ「友達」と、テーブル席に座っていては、交友は広がらない。万一その友達たちが、心からの友達でない場合、それは孤独から目をそらす時間になるかもしれないが、結局は、残念な時間のロスであろう。
オープンマインドで社交的なことは、割に孤高を選択しないとできないこと。
最近日本ではタモリ、加藤一二三、蛭子能収など、Going my wayで一人で勝手に邁進している人が改めて注目されている。これは、不本意なつるみに、みんな嫌気がさしているというシグナルなのかもしれない。



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タクシー運転手に怒られました。ハリルホジッチ監督解任で。 〜そして考えさせられたこと〜

僕にとって、フランスでタクシーに乗ることは、一種の社交でもあり、情報収集のチャンスでもある。
明らかにアジア系の外国人である僕がタクシーに乗り、少しフランス語を話せば、「お前さんどこからきた」となるし、そこから、タクシー運転手の話を通じて、社会の世相を知ろうと努める。また、フランス語で会話すれば、ボラれる心配は少なくなる。

 

 

タクシーの運転手は、移民の仕事である。黒人のこともあれば、アラブ人のこともあるし、中華系のこともある。白人の率は少ない。だいたいG7とかTaxi Blueあたりの会社が、安心できるパリの大手タクシー会社で、観光客狙いのぼったくり白タクも平気で走っている。
タクシーの運転手たちは、移民してからこのかた何十年やっておりますという人もあれば、別の仕事をしていたけれども、下火になって転向してきた人などもおり様々であるが、明けても暮れても車を走らせ、一生懸命に稼いでいる。
彼らは、僕が日本人であることをわかると、非常に親切である。そして、究極には黒人の運転手に、日本は中国の中にあるのかと言われたこともあるものの、拙い知識で、日本を讃えてくれることもあれば、やたらと日本に詳しくて、親日家であったりする。トヨタのプリウスはパリのタクシーにも多く、評判がいい。

 

 

運転手たちが、社会を批判するときは、歴史上や現在における白人への恨みなどがボンボン出てきて、僕は面白く耳を傾けている。このように、移民の人から本心を聞ける、大事なチャンスがタクシーという密室には転がっている。
こういう時に、アラブ人なんかが、割合日本には友好的な感情を抱いていたりすることが多く、列強の側にありながらも、日本の独特の国際的な立ち位置を感じたりする。

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音楽会 of the 世界最古の盲学校 〜フランス国立パリ盲学校〜

ひょんなことからパリでジャズをやることとなり早4年ぐらいがたった。

 

ジャズはプロとアマチュアの境が極めて曖昧で、プロと言い張っているわりには、えっという人もいるし、本業があって傍でジャズを楽しんでいる人が、とてつもなくうまかったりする。

 

であるから、ジャズならば、チャンスさえあれば、エセミュージシャンぐらいにはなれる。僕はといえば、たまたまあるジャズバーで歌うことになり、そこから派生して、ワインバーやビストロなどいくつかの場所で時々歌っている。僕が歌えているわけは、音は外すし、身近な人に真剣に批判してもらえば、聴かせるまでにうまいわけではないから、ただのラッキーに過ぎない。楽器は9割5分男性プレーヤーで、歌はその逆でほぼほぼ女性シンガーばかりだから、男性シンガーは物珍しいからニッチだし、そういう立ち位置をわきまえて、音楽は大好きなので、仲間やお客さんと楽しむということに専念している。

 

最近は、大学の後輩でもある女友達とデュオを組むことも多いが、彼女は少し黒人の血が入っているからか、声帯からしてジャズ向きの天才で、自然と聴く気にさせるシンガーである。一緒にライブをすれば、彼女が歌うときはみんな聞いていて、僕が歌うとみんな食べているから、そこらへんからお察し頂きたい。

 

 

ジャズなど音楽に関わる醍醐味は、大学に通っているだけでは出会えない多種多様な人たちと出会え、彼らと友達になって家族ぐるみで付き合ったりするようになっていけば、現地の社会にどんどん入っていけるということにある。音楽が、様々な世界を見聞するチャンスをもたらしてくれる。

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大統領制のフランスに住めば 〜マクロンの改革・サルコジの拘束・森友問題等に比較して〜

3月20日に、フランスの前々大統領サルコジの身柄が拘束された。容疑は、数年前より取り沙汰されていた、2007年の大統領選挙において、アラブの春で失脚殺害されたリビアのカダフィ大佐から、莫大な資金援助を受けていたというものである。この時の大統領選挙でサルコジは当選を果たし、1期丸5年を勤め上げた。

 

 

その3日後の23日には、韓国のこれまた前々大統領の李明博が逮捕された。容疑は、大統領への機密費の上納と、サムスンとの癒着である。たまたまであるが、こういう流れになっているのが面白い。

 

 

フランスに外国人として住むと、フランスは確かに大統領制の国なのだなと感じさせられることが、生活レベルにおいてある。どういうことかというと、大統領が誰であるかによって、行政サービスが変化する。

 

例えば、僕はサルコジ政権の末期に、日本のフランス大使館で学生ビザを取得した。
その時にまことしやかに言われていたのが、サルコジは移民や外国人のフランスへの流入が嫌いだから、学生ビザの取得が大変だよという噂であった。
実際、パリ第7大学への進学が7月半ばに決まってから、さあビザ取得だと思ったら、予約可能なビザの面接日が8月の末しか設定できず、面接では3週間以上発給まで待たねばならないと言われ、これでは、9月初旬の進学手続きに間に合わないと人生最大の焦りを感じたのを覚えている。それも、3週間の余裕を持って、面接日を予約してくださいと大使館が言っているのに、3週間以上前に予約しても、それ以上に待たされるという矛盾に愕然とした。
これがフランスの洗礼かと驚いたが、ビザは人に助けられて、運良く数日で発行され、急いでパリへと飛び立った。

 

このサルコジ政権末期の留学やフランス進学は、魔の一年であったようで、こうした日本人学生への非友好的な対応のために、交換留学にいけなくなったり、受かっていたはずの大学に進学できないといった不利益を被った人は少なくないとのことであった。

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