パリジャンと江戸っ子と京都の都人 〜なり切れるか、なり切れないかのはざまで〜

事実、パリジャン・パリジェンヌという響は、多くの人々を魅了する。

パリは、芸術や食、ファッションに学問、ありとあらゆるものを結集させる力と、発信力の二つを兼ね備えた都市である。それ故、ヨーロッパの中では、嫉妬からくるやっかみで、パリやパリジャン・パリジェンヌを皮肉ったり馬鹿にする人もいる。他方、外国人や田舎者が憧れのパリに来た時に、思いっきりパリジャン・パリジェンヌであろうとすることもある。

国立文法語彙リソース研究センターの定義によれば、パリ人とは、「(Celui, celle) qui est né(e) à Paris et/ou qui y habite.」、ということで、「パリに生まれ、パリに住む人。もしくはパリに住む人。」である。

これは、パリ人の定義に、「生まれて住み続けている人」と、「住んでいる人」の2種類があることを示している。残念ながら、「パリ生まれだけれど、もう住んでいない」という人は、パリ人ではない。

しかし、この2種類のパリ人には、明確な差がある。

歴史学者の故井上勲先生は、新撰組を語る時に、「同調の過剰」という言葉を使われた。「同調の過剰」とは、武家の出ではない新撰組のメンバーは、武士であろうとするために、むやみに刀を抜いたり、恥じることなく闇討ちをしたりする。このように、彼らが武士であろうとすればする程、本物の武士がしないことをやるというものである。
このように、パリ生まれでないパリ人には、パリ生まれの生粋のパリっ子がしない所作言動がある。

例えば、パリに生まれたパリ人は、確かにパリ生まれであることの自意識が強いが、それを易々と口に出したりはしないし、パリに対する自己批判的な眼差しをもっている。パリは汚いとか、モラルがないといった事実に基づく自虐ができる。

かたや、パリに来たパリ人は、フランス人でさえ、パリに同調しようとして、いとも簡単に「J’adore Paris!」「パリ大大大好き!」とかパリを賛美したり、服装とか所作などが、えも言われぬ、違いを持っている。フランス人であろうと外人であろうと訛りがあれば、よそ者の香りがする。I love Parisというジャズスタンダードがあるが、これは典型的な外から見たパリへの憧憬だけでかかれた歌で、「I love Paris every moment.」と転調して高らかに歌う。しかし、生粋のパリ人は、都会のせわしなさや秋冬に太陽のないようなパリで、every momentはパリを愛せないことを知っている。

では、僕はエセパリジャンとして、何をしているであろうかと考えてみる。すると、やはり、生粋のパリジャンがしないことをしている。それは、貧乏に似合わず、そして柄にもなく、しかし、ココシャネルの香りに魅了されて、シャンプー兼ボディーソープ、脇のデオドラント、アフターシェーブ、香水、これの全てをシャネルにしたということである。シャネルのおかげで、住んでいるエリアはダサいけれども、少しキザにパリに住む。

生粋のパリっ子は、人によるけれども、あまり香水をつけていないし、構わない人が多いから、僕のこういう行動こそが、「The エセパリジャン」なのである。

僕の場合は、日本ではお江戸両国に住んでいることもあり、数メートル先を歩く相撲取りの鬢付け油の良い匂いを嗅ぐにつけ、江戸時代の日本人って本当にいい匂いがしたんだろうなと思う。また、本来日本人は、服に香をたきしめたり、匂い袋を懐に入れる文化を持つ人たちであるから、日本人が再び、程よく良い匂いを発するように回帰してほしいと思っている思想がある。加齢臭がとか言っている場合ではない。香水の歴史的には、明治に日本では香水大ブームがおこるのだが、明治の生まれのひいじいさんが、資生堂の香水を愛用していたことを知り、明治のファッションとか、洒落者へどことなしの憧れがあるから僕もそういうことをしている、という真っ当そうな理由もある。じゃ、資生堂つけろよ、という批判も成立するけれども、まあそこは、ひいじいさんと僕の個性の違いということで、スルーする。

パリ人と江戸っ子に共通する宿命として、結局はみんな、実は田舎者の集まりであるという事実がある。

カテゴリー: エッセイ パーマリンク

コメントを残す