フランス人の字はなぜ汚いのか?〜アヴァンギャルドか只の下手っぴか〜

野球でもサッカーでも基礎をみっちりやって、それから発展させて崩していくところに髄がある。
私は江戸時代の崩し字を読まねばならないが、江戸の文字を書く人々は、基礎がないから汚く字が崩れているというのではなく、楷書がしっかりとできた上で崩していくから崩し字なのである。
相田みつをとて、完璧に書道を修めて、ものすごく美しい字を書ける上で、あの例の「にんげんだもの」のファンクをやった。

これは現代のフランス人の服装にも言える。彼らは服装を崩しているのではなく、服装が崩れている。

現代ヨーロッパ人は真面目な話、人生で一度もネクタイを締めたことのない人が多く、私も人に締め方を聞かれることがあるが、「お前さんたちの文化なんだから日本人の俺に聞くなよ。」と必ず皮肉ってから教えることにしている。
だから、ノーネクタイという、ネクタイ姿という上級のものを一段落として崩すファッションを崩しているのか、ネクタイを結べないから崩れているのかでは同じシャツ姿でも大違いなのである。

日本でも現代人だけれども、公家や社家の方々は束帯や狩衣も着れば烏帽子もかぶるし、モーニングも着るし、超一流の日欧のドレスコードを知った上で、普段は平服なりカジュアルに崩されるから、装いとはここに極まれりと常に見上げている。

私は服装のことはよく知らない。しかし、真に自分の装い方を知るためには、私の場合は束帯や狩衣は着てはいけないので、分に応じて、素襖や熨斗目裃は知らないとならないと最近感じている。

すなわち、フォーマルを知ってインフォーマルを知るのであり、私のようにフォーマルを知らないからインフォーマルなだけではダメなのである。

そしてこのフォーマルは全て伝統であり、これを知らないでアヴァンギャルドは体現できない。

アヴァンギャルドは元は軍隊の陣の先を行く先鋒という意味だが、19世紀にはこれが転じて古い伝統を革新する者という意味で使われ出したが、このためには伝統や旧来の型を熟知していなければならない。
言い換えれば、型を熟知していなければ型破りはできないのである。

こうつらつらと考えて、生徒の文字を一瞬アヴァンギャルドと考えたのは間違いで、あれはアヴァンギャルドでもなんでもなく、単に汚いだけだという結論に達した。

しかし、リクルートスーツ文化のような画一化された機械的な人間文化を憎み、個性豊かな人間文化を愛する私としては、いささか矛盾するかのようであるが、私が求めているのは、崩れているから個性なのではなく、崩すから個性という弁えや分別のある個性なのである。

1968年の革命は聞こえは良い。教員の権威を廃し、自由や生徒の個性を尊重せよ。これに真っ向から異を唱えることはできない。権威主義者ほど空虚な者はいないし、個性が尊重されない世の中ほどつまらぬものもない。
ただし、個性のためと称して基礎訓練やいろはが撤廃されると、人間は動物的になり、自由の名の下になんでもありと勘違いする者も現れれば、人の尊厳を権威と勘違いし、何食わぬ顔でこれを毀損する人間が出てくる。個性であると勘違いして、汚い字を平気で教員に提出し、自己の尊厳をも蔑めてしまう人間が出てくる。

フランスはいつも革命を起こす時に、定義をしないままに自由や反権力というお題目を唱えて、徹底的に文化を破壊する。

フランス人は頭がいいはずなんだから、自由とはなんなのか、個性や尊厳はなんなのか、中身の定義をしっかりした上で、バランスをとればいいのに、そういうことを革命の熱狂の中に置き去りにするから、こんなカオスな現代フランスになってしまった。

字も汚くなればネクタイも結べなくなるわけだ。

革命は極端であり、その勢いに知性が後退するものである。そして、伝統を無視するからアヴァンギャルドでもない。伝統を知らずして個性もなし。

こんなことを外人教師の私のアルファベットより汚い字を書く皆の衆は教えてくれたわけである。

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