トリエステ 〜波乱の麗人〜

1. 波乱の歴史

Trieste è la città, la donna è Lina.
トリエステこそ街、リナこそ女。

トリエステ生まれの詩人ウンベルト・サバ(1883-1957)の名句である。
彼は生まれた街トリエステを愛し、妻のカロリーナ(愛称リナ)を愛した。

サバはヴェネツィア貴族の商人の父エドアルドと、トリエステのゲットーで代々商売を営むユダヤ人の母フェリチタの間に生まれた。
父は母と結婚するために、ユダヤ教へ改宗したが、結局サバが生まれる前に家を出た。
こうして、乳母に預けられたりもしたが、結局母に引き取られたサバは、ユダヤ人として育った

彼が生まれた時のトリエステは、オーストリア=ハンガリー帝国の領地であり、大学はピサ大学に入るも、ピアニストの彼女に振られトリエステに戻り、モンテネグロ方面へ旅立った。そして、彼が旅から数日帰宅した際、リナに出会い、軍役を果たし、1908年、彼らは伝統的なユダヤの夫婦の契りを交わし、すぐに一人娘のリヌッチャが誕生している。

1911年彼は処女作の詩集『Poesie』をフィレンツェで刊行し、翌年にはボローニャ、1914年にはミラノへ移り、エデン劇場のカフェの支配人として働きながら家族を養うも、第一次大戦の際にタイピストとしてイタリア軍に徴用され、戦後トリエステに戻った。

しかし、ムッソリーニが政権を取りナチスに同調すると、当然彼らユダヤ人への風当たりは強くなり、パリ、ローマ、トリエステ、フィレンツェと家族を伴い永い逃避生活に入る。
ようやく戦が終わり、逃げる心配がなくなると、彼らはミラノに住み、穏やかにそして精力的に詩作を続け、時折トリエステに帰る暮らしを送ったという。

1956年に妻を失ったサバは、翌年の8月25日、トリエステの隣村ゴルツィアの病院で妻の後を追うように天へ召された。
今、二人は、トリエステのサンタンナ墓地に眠っている。
トリエステに生まれトリエステに眠ったのである。

トリエステの辿った運命もまた、ウンベルト・サバのそれのように険しいものであった。
ローマ時代、市場を意味する、Targestum(タルゲストゥム)と呼ばれた港町トリエステは、その立地故、常に奪い奪われるローマ人の土地と相成った。
ローマ帝国の崩壊後は、ビザンツ帝国の支配を受け、平安時代にはゲルマン民族たるフランク人に乗っ取られ、その後はオーストリア公レオポルド3世の領地となり、江戸時代にはナポレオンの支配期を挟みつつ、オーストリア=ハンガリー帝国に領有された。

しかし、1861年にようやく近代国家としてイタリアが統一されると、イタリア王国は旧来のローマ帝国時代のローマ人の土地の回収を目指し、トリエステももちろんそれに含まれた。
サバが生まれた時、まだ、トリエステはオーストリア=ハンガリー帝国の領地であった。そして、奇遇にも、第一次大戦に乗じて、この多民族国家の様々な民族が独立し、皇帝カール1世が廃帝され、帝国が崩壊したため、イタリアに復帰した。

ところが、せっかく旧領復帰を果たしたトリエステに、またしても波乱の分捕り合戦が降りかかる。
第二次大戦の際には、イタリア王国の首班の座から降ろされたムッソリーニが、ナチスドイツの傀儡国たるイタリア社会共和国の大統領として北イタリアを支配したため、南部のイタリア王国が連合国入りを果たしたのに対し、北部は枢軸側にとどまり、ここにトリエステが含まれていた。

そして、問題は、ナチスドイツの敗北により、トリエステに進駐してきたのが、お隣スロヴェニアの共産独裁者チトーであったことである。

トリエステの友人は、みなスロヴェニアが嫌いと言っていたが、おじいさんが、進駐してきたチトー軍に財産を没収されてトリエステの奥へ逃げただの、歴史的にも反共のトリエステ市民が生き埋めにされたなど、トリエステ市民の隣国旧ユーゴスラヴィアスロヴェニアへの感情は今も宜しくないようである。

このようにイタリア王国に単純に戻れなかったトリエステは、戦後すぐイタリアとユーゴスラヴィアの領有権の争点になり、共産東側陣営と、自由主義西側陣営のつばぜり合いの接点となる。それ故、チャーチル英国首相がポーランドのシュチェチンとトリエステに鉄のカーテンが敷かれたと比喩し、冷戦の到来を断言したのである。

そして、トリエステは国連の管理を経て、ようやく1954年にイタリアに返還された。
だが、トリエステの港と市街地は、今や古と同じローマ人の土地でラテンであるが、トリエステに付随する山村の一部がスロヴェニア領となっている。

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