朝5時終わり頃のバスに乗り、駅の方面へ行く。
このバスは途中の広場止まりであったが、運転手はバスを降りて駅までの行き方を丁寧に案内してくれた。
オスピタリタ(おもてなし)のイタリア人らしい計らいである。
6時15分発ヴェネチア行きのチケットを自動券売機で買おうとしたが、どれも機械の不良でカードを受け付けてくれない。
駅の窓口でこれを買う。
親切な女の駅員は、「サンタルチーアね?」と僕に確認する。
僕はとにかく中央駅に行きたいから、「チェントラーレ」と言ったが、「Sì, Santa Lucia」と返された。
あのナポリの歌のサンタルチーアが頭に流れてくる。
イタリア国鉄の列車はよく掃除も行き届いて美しい。外観も汚れがこびりついていたりすることもなく、綺麗で、冷房完備の車内は寒いぐらいである。
フランスもこのぐらいであってほしいと思う。
トリエステの海岸そばを列車が離れると、少し内陸を沿ってヴェネツィアまで、列車は走る。
緑の畑や木々、イタリアならではのカラフルな家屋の景色に目をやりつつ、2時間などすぐに経ってしまう。
イタリアの景色は目に楽しい。
ヴェネツィア・サンタルチーアの駅に降り立つと、真ん前が水上バスの乗り場になっている。
この街は水上バスで移動するか歩くしかない。車道がない街なのである。
船のノットは知れているから、車やバイクがなく、小船か人の足の速度となると、街全体の雰囲気がのろのろと遅くなる。もしヴェネツィアで手漕ぎのゴンドラしか使わないなら、これこそ、現代では馬車か歩きかしかないアーミッシュにしか見られない、前近代の人間たちの速度と時間の流れで暮らすことができる。
驚いたのは、水上バスの一日券が20ユーロすることだ。
日本は東京と東京郊外を往復すれば1000円を超える異常な交通料金の国であるにせよ、ヨーロッパではたかだか公共交通機関の都市内一日券が、ここまで高いというのは他にないと思われる。
ゴンドラはもっと高い。安くて一人40ユーロぐらいもする。水上バスの料金を考えると妥当である。
だから、ヴェネツィアに行けばゴンドラに乗るのが当たり前であるかのように言われるが、そういうこともなく、これは日本の観光地の人力車に似ている。人力アトラクションなので乗れば高いし、人から注目を浴びる。
また、水上タクシーもあるがこれも高い。
僕のような風来の旅人は結局水上バス一日券で過ごすことになる。
しかし、強気の価格にしても、絶えずごまんという人が訪れるヴェネツィアのことだから、この一日水上バス乗り放題20ユーロは、タバコの税を増やした場合、果たしてどのラインまでは税収が落ちないか、というシーソーゲームに等しい。
なるほど街のどこを歩いても、観光客しかいない。20ユーロは観光客に払わせる価格として上手に設定されている。
ごく裏路地を歩けば、地元民が住んでいる匂いはするが、どの飲食店も土産物屋もブティックも全て観光客で埋め尽くされている。
ヴェネツィアは、列強の近代都市にしては珍しく、埋め立てたり、列車を奥まで引いたり路面電車をつくったりせず、構造自体は前近代を維持したものの、近代社会の中では観光という極めて近代的な収入源に頼らざるを得ないという感じが伺える。
そして、観光という収入源に頼らざるを得ないながら、頼れるだけの観光客が毎日訪れているということも実によく分かった。
ヴェネツィアは、それ一つの街で完全なる本物の中世のテーマパークとして機能している。
アドリア海に面する、世界に二つとない中世のままの都市。
完璧であろう。
僕も心から感動しながら、水上バスからヴェネツィアの街を眺め、この街の裏路地を歩き倒した。
でも、ここに住むことはできない。
何もかもが観光客に汚染されていて、地元民の地元民ならではの生き方が見当たらないからである。
確かに裏路地には、この写真のように誰もいない。
しかし、食堂が集まる通りや、店のある通りには観光客がごった返している。
さらには、小路は広くても人が3人横に並べば塞がれる広さだから、人で渋滞が起きている。
だが、ついにヴェネツィアに来たという感動は深い。あまりに美しい水運の街。
水の緑色は隅田川と同じだという事実に江戸とヴェニスの近似を思いながら、午前中はヴェネツィアの街を歩きに歩いた。

休憩中のゴンドラの兄ちゃん

船から制服までセンスに富むイタリアの国家警察

カーネルサンダース風水上タクシーの運ちゃん

おつな教会
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