海外の日本人ぺてん師 -パリ千家家元千パリ休-

しかし、大変に罪深い違いがある。 この罪は、彼らが「伝統」ぶっていることなのである。
どうせなら、芸と言える技量がないということをあるとする嘘が嘘にならないように、現代アートに昇華したことにして、紙コップとフォークで濃茶と薄茶の中間の抹茶をたてるとか、ダンボールにマジックで漢字を書いたりすればいい。もしくはアバンギャルドに、まっ裸で踊りながら、抹茶をかぶって、和紙にダイブしてもいい。
困ったことに彼らはこういうことをせずに、きちっと和服を来て、ちゃんと筆をもって、あくまで「伝統」の威を借りるのである。
僕とて、作務衣などを着て、汚い字で掛け軸に何か書けば、フランス人を騙すこともできよう。

僕が和服を着て、悪趣味な器で、しゃかしゃか茶筅で抹茶をたてて、我はサムライでござるとやれば、きっとアート詐欺を働ける。
詐欺にとどまらず、おまけに「きゃーお侍様」、とか言われてフランス女にモテるやもしれない。

まだまだ、日本の「伝統」が何たるか、何が日本の芸術の技巧なのかは、「違いがわかる」レベルにおいて、フランスにはあまねく伝わっていない。この状態が続けば、いつの日か、パリ千家家元千パリ休が出てくるのではないかと思っている。

では、ぺてん師はなぜ、「伝統」の威を借りるのであろうか。 それは、「伝統 tradition」という言葉が、価値を内包するからである。ポッと出のよくわからない新しいものよりも、形は多少変わっても古くから脈々と継承されているものの方が、長さに比例して価値を帯びる。
価値とは、生み出そうと努力しても生み出すことはできず、あるものの存在そのものが、長い年月をかけて様々の人に認知され、 評価されることで生まれる。だから、価値がないと見なされたものは、自然淘汰され消えていくし、価値があるものだけが後世に残っていく。

本物の現代アーティストは、どんなに醜いものを生み出す時にも、「伝統」の威を借りようとしないから、作り出す物体のみで勝負する。しかし、「伝統芸能の顔したエセ現代アーティスト」は、自分が何ら価値のあるものを生み出せないことをわかっているから、「伝統」の名を冠して、粉飾するのである。

書道や茶道など、海外でも高く認知され、地位を築いている伝統芸能には、必ず、こうした日本人ぺてん師が混じっている。 彼らの存在の弊害は、まだ違いがわかりきらない外国人に、間違った日本の伝統観を植えつけてしまうことにある。

例えば、ぺてん茶道家の元に通えば、本物として日本で通用する「伝統」は会得できていないにも関わらず、 自分が「日本の伝統」をあたかも知っている気になる。
特に、この被害者が白人の場合、日本に来て、和服を着て、茶道ごっこをやった時に、 白人が日本文化に触れることを大喜びする日本の西洋教信者の方々が、もれなく、「上手ねー。」、「日本人よりも日本人らしい。」、などと褒めそやしてくれる可能性が極めて高い。
西洋教の教義茶道編では、被害者の点前が正しいかどうかということは、問題ではない。

このように、デタラメな日本を外国に広めているのが、実は日本人自身だということがあるのである。
ただ、パリのぺてん日本人のように、ぺてん外国人というのは、どこにでもいる。
日本人のぺてん師だけが、外国で日本を売って活躍なさっている訳ではない。
実例として、僕の知人のイタリア人は、日本でぺてんアルバイトをして稼いでいた。
日本のおもしろ現代文化の一つに、チャペルであげる結婚式がある。この西洋風結婚式は、カトリックでやってしまうと、信者である必要があったり、カトリック教会に通いつめ、教義を真剣に勉強しなくてはならない。カトリックは伝統宗教だから、インチキにはうるさい。だから、普通プロテスタントの形式で執り行う。

フランスのカトリック教会では、キリスト教徒でもないのに、キリスト教の形態で行う、こうした日本人の西洋風結婚式に驚愕し、批判の声も上がっている。
あるフランス人の知り合いは、日本の西洋風結婚式はコントだと一笑に付した。

さあ、日本のプロテスタント式結婚式において、牧師役で大活躍するのが、ぺてん白人アルバイトである。 そのイタリア人の知人は、無神論者であり、一切宗教を信じていない上、百歩譲ってもイタリア人だから、カトリックの神父役が相応しいはずだ。しかし、彼のアルバイトはプロテスタントの牧師役。僕の前で、日本語の誓いの言葉を暗唱して笑わせてくれた。
キリシタンでもないのに賛美歌を歌い、ヴァージンでもないのにヴァージンロードを歩き、牧師役のふざけたイタリア人男の前で一生の愛を誓い、指輪を交換し、誓いのキスをする。彼のお導きによりご結婚されたカップルには、慈しみ深きイエス様のご加護があらせられんことを願う。

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