フランスで外人として生きる。その差別と区別の境。(後)〜研ぎ澄まされるアイデンティティ〜

在外日本人の類型

在外日本人というにも大きく分けて三つの類型がある。

1.伝統日本主義・右翼型

これは筆者のような人間のことであり、外国語もできなければ欧米を知らない日本人に限って、未だに枕詞に「欧米では」と前置きして自己の理論を正当化させるようなことを懐疑し、西洋礼賛主義は本当に正しいのかということを検証し日本を考えたいとする好奇心や志から外国に出る人間。西洋の欺瞞や偽善独善に対しては手厳しく批判的である。また、西洋化して歪んだ日本の社会に関しても辛辣な眼差しを向ける。現代欧州においては少数派。

2.フラット・中道型

西洋化した日本社会の窮屈に嫌気がさして社会人をやめたり、夢が見当たらず自分探しなどと称して自己を見つめなおすべく人生のモラトリアムとして外国に流出した日本人。フランスにおいてはワーキングホリデーの若者や謎の語学留学者に多い。これが外国人の伴侶を得たりして欧州に長期滞在することになったりした場合、日々の暮らしの中で「日本人の妻」などとして日本人として絶えず見られることを知覚し、徐々に日本人としての感覚が研ぎ澄まされ、いきなり着物を着出して日本人アピールを始めるなど、真に日本を知っているかというと疑問であるし軽薄の感は否めないが日本の伝統主義者風に化けることも多い。謎の書道家などになって日本文化大安売りの担い手になることもある。

3.反日・左翼型

生まれながらに日本に馴染めなかったり、国を愛せず逃げる形で、別世界を求めて外国移住を選択した人間。ともすれば、西洋社会の欺瞞や差別的社会を覆い隠し歪曲しながら、諸々の差別解放運動などをデフォルメして取り上げ、開かれて差別なき進んだユートピア的西洋像を生み出して日本に喧伝したり、場合によれば、日本と連携して極左活動をフランスなどにおいて行ったりする。連合赤軍や全共闘の流れ者の多くがフランスなどの欧州へ移住したように、この系譜と交わることもある。駐在員を除けば、通常日本で呑気に暮らせる人間は、中々外国になど長期で移住しようと思わないので、長期滞在者には日本に馴染めず日本を嫌う人も多い。

東南アジアなどの非欧米は別であろうが、フランスから見る限り、ヨーロッパには主だってこういう日本人たちが在外邦人として存在するわけであるが、日本人としての自己の洗練を試みるものは、主だって日本の伝統主義者の連中である。

しかし、伝統主義者というのは、明治の高等遊民のような永井荷風や九鬼周造と同様に、現代社会においても、日本で物心両面でそれ相応に苦痛なく生きられ、歴史を肯定的に見れるが故に、国や伝統を愛し愛することが出来、天然自然に日本人たる自己の肯定のできる人々である。

中道型は、擬態語を使えば「ぽわーん」とした人々が多く、思考というよりかは感性のみで生きるタイプで、ある意味深みはないが解放された人間と言えるかもしれない。

反日型は、生まれなどをして日本に生き続けることが苦痛であったり、歴史を省みてその歴史観が正しいか間違っているかは別にせよ自己肯定を躊躇したり、ルサンチマンを抱かざるを得ない人が多いから、特に伝統主義者側から、彼らの行動を頭ごなしに全否定し非難できるものでもなく、彼らの行動の裏に存在するルサンチマンを慮る努力は必要である。

そして、外国においてきちっと現地に溶け込む努力をして、少しは現地の言葉を話せるようになるかは、その国の社会をどれだけ見聞したいかの志に比例する。移民の問題に共通するかもしれないが、日本人の場合は特に、多くの日本人が日本人村に吸収されて、ただ外国に住んでいるだけで日本人としか関わらず、何十年住んでも日本語しか話せなかったり、日本人の村社会の中での権力争いに始終して、潰し合いや悪口合戦を繰り広げていることが多く、外国にいるだけという理由で在外邦人が外国の文化や社会を知っていると見なすのは危険である。

フランスは特に在留日本人の数が多く、日本人の村社会のみで生活を完結できるために、日本を出ても尚現地に溶け込もうとせず、日本人村のみで生きている人間が多い。

日本人が外国へ出る際の心得としては、現地社会を見聞したいなら、日本人村社会は避けるべきであるし、日本人であるから無理をして一緒にいるというのではなく、日本でも尊敬できて交流したいと思える日本人だけに交際は限った方がよく、そういう日本人は日本人村には絶対にいないから、縁という出会いに期待した方がいい。

どの在外邦人も拭えない日本人であるという事実と眼差し

とはいえ、我々在外日本人がいかなる思想や態度であろうとも、どこまでもどこまでも外人であって日本人であるという眼差しやレッテルが外国においてはつきまとう。日本人の場合幸いこれによる不利益はないが、このことこそ移民や外人の同化の難しさに直結する。

フランスにおいては、白人であれ名前から元々のフランス人ではないことが明らかであったり、いちいち「オリジン何々」と称してフランス生まれのフランス国籍であろうとも、何系のフランス人なのかが常に友人たちの間においてでさえ差別的な意味なく普通に語られ問題にもされるし、当人たちのアイデンティティの中にも無論刻み込まれる。

例えば、「アンナ」や「アンヌ」などという名前は明らかに東欧系の女のファーストネームだし、苗字なら「何とかヴィッチ」といえば東欧系、「何とかマン」ならドイツ系かユダヤ、「何々エッティ」ならイタリア系とすぐにわかる。日本人といえども、例えば最後はフランス国籍を取得し日系フランス人になった画家レオナール藤田をして彼は日本人扱いのままでフランス人画家ではない。

これは、眼差しにおいても外人や移民がフランス人として完全には扱われないことをよく示すだけでなく、在外邦人のアイデンティティをしても、祖国からは決して解放されないということを示す。

反日活動をフランスでする日本人も、然らばフランス国籍を取得し日本を捨てフランス人になりフランスに命を捧げたら如何かと思うが、結局日本人であることを捨て去れず、むしろ彼らの意図と裏腹に日本に搦めとられていく。

現地で我々が受ける眼差しとしては、たとえて、誰一人としてフランス人は私にワインの講釈を求めない。私は酒は銘柄が美味いか不味いかが基準だから詳しくはないが、一応日本人として日本酒の基礎は説明できる。つまり、彼らは日本人としての私に期待しているのであり、どこへ行っても私に向かいては和食や酒に関して聞き、フレンチやワインを説明しろとは言わないわけである。また、西洋人の関心ごととして日本の津々浦々や、侍などの歴史や日本の性についての解説を求められることも多い。もちろんフランス史を解説せよなどあり得ない。

そして、私がフランスで大学講師になれたのも、日本人で日本学をやっているからこそであり、仏文学者やフランス史学者であれば、フランス人には優越し得ないから、ほぼあり得ないと見て良い。

というように、私はフランス語を多少話そうとも、日本人であるところの私としてフランス人に捉えられているわけだから、日本人であることを期待される。

国籍上のフランス人レオナール藤田が死してなお日本人画家であるように、ある民族やその文化を背負う人間が、国籍という表面上のものを変更したとて、当人に向けられる眼差し自体はもとのオリジンのままなのである。

このように、民族の血肉というのは決して剥がれるものではなく、それを掻き毟ろうとすれば掻き毟ろうとするほど反比例して露わになるという恐ろしいものであり、それこそが、在外日本人がどの思想であれ日本に取り憑かれる道理であるし、白人黒人アラブ人アジア人問わず、移民をして移民先の国に同化しないという根源的理由となる。

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