フランスで外人として生きる。その差別と区別の境。(前)〜スポーツと人の痛み〜

つい先日、地元フォンテーヌブローの友人の警察官とバーベキューをしていた。

僕と彼とは似た考えを持つ。それは、外人であるからには、受け入れてくれている国やその文化を尊重すべきであるということである。

彼はパリ市警の警察官だから、常に移民問題の最前線にいる。彼は今休職中で、まだ20代の彼のTシャツの上には腰痛持ちのおじさんくさい黒のコルセットが巻かれている。これは、半年前に移民の犯人をパリの路上で逮捕するときに手向かいされ痛めた傷である。これをして治癒が見込まれる夏明けまでの休職を認められている。
だからこそ、移民の多くがフランス社会を尊重せず犯罪ばかりを繰り返す割には、生活保護を要求し甘くフランス社会に身を置いているということに彼は怒っている。そして移民と対峙する最前線に体を張っているお巡りクラスの警察官だからこそ、フランス国家の現実問題に対する危機意識は、机上の空論をこねくっている研究者的人間より強い。

ある日彼と移民論議をしていた僕は、「フランスにおいて、外人である僕が、フランス国民より下であることは当然であるし、郷に入れば郷に従うべきである。それは日本においては逆だから。」と言ったら、「日本人はこのように考えるから、僕は日本が好きなんだ。」などと、感激して言葉を返してきた。そこから、彼とは意気投合し、真の友人に成った。

僕や彼が嫌がるのは、外国人や移民が現地の文化伝統を無視して勝手なことをしたり、社会を尊重せず道徳や秩序を崩壊させるような真似をすることである。

僕はフランス人に向いても、「こんなにポイ捨てであふれているのに、エコロジーとか言うな」などと批判をするし、フランス人の偉いところは、インテリなら自己批判もできる人が多いから、批判されたからとて闇雲に稚拙な愛国心をむき出しにして反撃してくるわけでもないところにある。真の愛国ということは、自己の国の社会の闇をも考え、その解決を目指さねばならないし、自分の国を愛するがゆえに、愛国と称して甘いことばかりを言って自己陶酔に陥るのは稚拙で、このために議論や思考を過つ恐れもあり、国の美点を伸ばし欠点を減らしていくために辛口でなくてはならない。

また、僕の友人たちは皆僕が現代フランスを好いていないことを知っているが、それでもフランスにおいて日本を考える僕の存在を理解してくれる。そして、そろそろフランスから別へ行こうと考えているのは、近い人ならみんな知っているから、フランスに留まらせようと引き止めようとする人がいてくれることは、謝すべき友誼でもある。ただ、僕としてはフランスに居すぎるのも一度の人生の経験のバランスとして悪すぎると思うし、別の国を見てみたい好奇心の方が優っている。また、日本にはタイミングを見計らって必ず帰る予定である。

そして何故僕のフランス批判にフランス人たちが耳を貸してくれるのかと言えば、当のフランス人自体が、今のフランス社会には思うところが多分にあり、フランスの現状を嫌う人が多いからなのであり、僕のフランス批判に賛同するフランス人も少なくない。また、議論は果てしない。

さて、バーベキューで彼は僕のことを、フランスに馴染み暮らす者として受け入れるというポジティブな意味で、「Yutaも今や移民だ。」などと口にした。よく日本人が外人に言う、「日本人より日本人らしい。」とか言う、例の褒める意味で使われる薄気味悪い言葉と同義の使用である。

僕は直ぐに「僕は移民ではない、外国人であるところの日本人だ。フランス国籍を取ることも決してない。」と返答した。

彼が彼を先祖代々のフランス人と認知しそれを誇るように、私にも日本人としての矜持がある。その中で、今は外人としてフランスに身を置かせていただいている状況なのであり、フランス社会にできるだけ潜って見聞しようとは思うし、彼らを尊重してヴィジターの日本人として暮らすのみであり、彼らへのペーパー上或いは精神上の同化は求めもしなければ、勘弁願うところである。

肉体をしてもそれは同じである。

私は生来逆さまつげに悩まされている。まつげが目に刺さるというのは苦痛で、これを解決するには、今の医療をしては、二重まぶたへの整形手術より他ない。普通は自分で目をいじくってなんとかするのだが、にっちもさっちも行かなくて、3回ほど眼科に逆さまつげを抜きに行かざるを得なかったことがあり、その際に整形手術を勧められた。

メンデルの法則で一重まぶたは二重まぶたに弱い遺伝性であり負けるから、一重と二重の合いがけは二重になるということを習ったが、これは絶対嘘で、我が家の男は二重の母に生まれても、代々切れ長の一重まぶたを継承しており、市川宗家のギョロ目の伝統の真逆を行く家であるようだ。
かん玄くんもお目目ぱっちりで良かったけれども、もし市川宗家の子が一重で生まれてきたら、大見得のにらみが切れなくなり歌舞伎の一伝統が終わってしまう。
或いは、平安以来のある社家の方が、代々鼻が高くて目が細いという家の顔の伝統を肖像画を見せつつネタにされ、これが鉄板の笑いであるが、肉体の伝統というのもそうやすやすと改まるものでもないと思われる。やっぱりこの方のお子さんも父親と同じ顔をしていて、目が細くて鼻が高い。もし、メンデルの法則が事実なら、一重まぶたなど千年のうちに淘汰されて、とっくのとうにこの家系の顔もお目目ぱっちりになっているはずである。

そして、我が家の男系の伝統に反する形で、仮に僕が二重まぶたにする場合、これは美容整形ではなく医療整形であるから、西洋美礼賛の現代日本において、格好のつく言い訳と言えなくもないが、やることは全く同じだから、お目目がぱっちりになってしまう。
面白がる友人からは、ネタでやれなどと言われるが、一重というのもまた二重まぶたという西洋的なものに比して、日本人的な肉体の最たるものだから、現代的感覚では美しいとされない一重も、僕の場合これで生まれてから慣れているので、今更くりくりお目目になって西洋化することは勘弁願う。

さて今回は、僕が洋風化することを拒み、日本人たることを先鋭化するように、日本人が外人として他国に暮らすということは、どういうことなのか。或いは、外人としての経験が日本人たる自分の思考にどういう影響を与えてくれるのか、移民社会の現実を含め述べてみたいと思う。

また、これは僕の考えなので、全在外日本人に百発百中で当てはまるなどという独善的発想はないが、とは言え、割合似通う経験をされている在外日本人も多いから、外人体験としては半分程度の普遍性を帯びることを期待する。

カテゴリー: 社会批評 パーマリンク

コメントを残す