フランスで外人として生きる。その差別と区別の境。(前)〜スポーツと人の痛み〜

では、どういう時に理不尽を感じるのかといえば、それは、アジア人であるという理由で「中国人」と罵られるということは、自分には身に覚えのない理不尽とも言えるし、あるいは、行ってはいけない移民地区に入り込んだ時のヘイト体験などがある。

パリ北方の郊外ボービニーという街は、とにかく貧困で危険な黒人街であり、私は大学での発表の後、そこに友人たちと大きいアパートを借りて共同生活をしていたフランス人の誕生日会に呼ばれてスーツで行ってしまった。
そんな街でスーツを着ていたら浮くし、道ゆく移民の人々から、Fuck Youのポーズを取られ口でも罵られたわけである。ポーズは中指の方ではなく、お前のアナルに腕突っ込んでやるという男性に対する屈辱を表す、拳を握り前に突き出しつつ上腕二頭筋を別の手で抑えるというポーズである。

アジア人はアラブ人や黒人よりは社会的に恵まれた環境にあるし、彼らが僕を外人と見たか中国人移民と見たかは知らないが、とにかく恨みを買ってそういう罵倒を受けたわけである。

このように、恨みに基づく人種差別的なヘイトを受ける時、それは黒人やアラブ人からの方が白人よりも圧倒的に多い。これは、社会で差別を受ける人たちは、人心の常として、さらに見下したり敵対する対象を探す。そうすると、白人社会においては、よそ者同士であるアラブ人黒人アジア人という底辺における残念な憎しみ合いの構造が発生するわけである。

また、フォンテーヌブローの駅の白人の売店のおばちゃんは、どうも外人嫌いみたいで、僕が行くと露骨に嫌な顔をして、一言も言わないし、汚いものを触るかのようなつり銭の受け渡しをする。白人に対しては挨拶もするし、そうはしないから、客の外人や移民の態度や人柄・雰囲気は抜きにして、露骨な外人嫌いなのであろう。

日本にいるときは、差別発言や差別的待遇が自分に向かうことはなく、体験することは不可能であるから、こういう理不尽に罵られたり理由もなく嫌な顔をされる侮辱というものの無意味さを知覚できるということは貴重な体験である。

そして、差別をする側も、サッカー選手になるぐらいしか社会で地位を築けない永遠の貧困と被差別のスパイラルの中で、人心が腐り、自分たち以外の人からターゲットを見つけ出して人を侮辱しなくては生きられなかったり、或いは、移民の様々の問題に嫌気がさし有無を言わさず外人嫌いにならざるを得ないわけだから、これは双方とも経済のみを優先する政治に翻弄された被害者とも言え、彼らの憤怒や痛みというものにも自然と思いが至るのである。

フランスにおいては、安価な労働者確保のため、人類平等の美名の下に推し進めた移民社会にありて、その美名は未だ実現を見ず、その真逆に向かっている。社会の中における人種や階級の対立、差別は深きに深きを重ねてゆく。

そんな21世紀初頭のフランスに、時に謂れなき恨みを買ったりヘイトを受けたりしつつ、一外人として身を置くことは、人の痛みも少しはわかるようにさせてくれるし、さながら観戦武官のような心地こそする。

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