黄色いベスト運動(3) ~ナショナリズムの回帰を感じながら~

しかし、タブーを打ち破り、現実の難儀を発信することは、得てして、ユートピア思想や果てしない人間愛とは相容れない。

人間の性悪を痛感しながら、これに適宜善処するリアリストとしての、責任ある情報分析と発信である。

「戦争反対」「差別反対」「人類平等」。

美しいことを言っていれば確かに人格攻撃はされない。なぜなら、これに異論を唱えることは武器商人とかよほどの悪趣味な人でない限り、できないからである。

しかし、現前にある事実をして、「人間は優しいから、武器を持たなければ攻撃されない」とか「戦争反対なので、攻められたら屈服しましょう」とか、情状酌量の余地なき極悪な人殺しに対してまでも「人権と平等を」とは言えない。

かたや、ユートピアのスローガンに疑義を挟むことは依然難しい。

多様な意見があってしかるべきであり、多様性を支持すると公言しているはずのサイドから、こうした言論に対する封殺と、言っちゃいけないという重い空気がある。

目下戦後70年以上を経たフランスでは、日本同様、戦後のユートピア思想を担った、メディアや言論人、研究者が標榜してきた、行きすぎたスローガンと、現実のズレに万人が気づき葛藤している。

そして、大多数のメディアや多くの研究者や言論人という一種の閉鎖された世界にのみ生きる人間は、一般の人の存在や思想とは乖離した存在、言論をして現実に対処することを放棄した夢想家という扱いになり、今や一般人のほとんどは、誰も、これを相手にしていない。

そして実に近年、現実に鑑みてもの言えば、「君は右翼だ、差別主義者だ、ナショナリストだ」と袋叩きにあうことを恐れ、公然と議論することを避けざるを得なかった人たちが、21世紀の時代にネットという、匿名と錯覚できるかのような世界を得た。

あるいは、Yahoo newsなどのコメントなんかも、偽善というよりかは、本心からのコメントであふれ、多くの人が「いいね」を押して賛同する。

既存メディアしかない時代は、今までサイレントでいた人々は、マイノリティーなのか、マジョリティーなのか自分の立場がわからなかった。だが、ついぞ、彼らは自分の立ち位置がマジョリティーであることを知ってしまったのである。

僕は、ネットの世界は市井の本当の雰囲気や思想的状況を知るのに重要だと思っている。

しかし、最悪な面がある。警察やハッカーが発信源を特定できるという意味では本当の匿名ではないが、匿名性をして、どうしても過激に走りがちということである。

また、匿名でバレないと思っているから、そこに無責任の言論が生まれることも望ましくはない。

言論とは、論争を呼ぶことが多く、反対意見の人間から恨まれることもあるから、殺されても仕方がないという気持ちで、命がけで堂々とするものであり、匿名でこそこそやるのは、好きではない。

それでも、看過できない事象として、日本には「ネトウヨ」という現象が発生し、欧州始めフランスにはカトリック原理主義者や、ネオナチたちが「ネット極右(Extrême droite sur Internet)」として顕在化した。

もちろん左翼のネット世界もある。

そして、インターネットによるSNSをして、黄色いベスト運動が組織されたように、ネットの世界で、今まで叩かれていたナショナリズムが息を吹き返したのが今日のフランスや日本、世界である。

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