乞食のクリストフ〜日仏乞食論〜

かたやパリもフランスも乞食による「ねだりがましき儀」は溢れている。

パリ郊外やパリ周辺の環状道路で車が信号待ちをしようものなら、そこには黒人なりジプシーなりの若者が、モップやバケツを持って出てきて、窓を拭くから金をくれとやる。
街行けば、煙草くれだの、1ユーロくれだの言われることはいつものこと。
スーパーや駅の出口、メトロの通路には物乞いがいることが多く、「J’ai faim. おなかすいた。」と書かれたプラカードを掲げて座っていたりする。

あるいはメトロに乗ってきて決まり切った口上を述べる乞食もいる。
「ボンジュール。メッシュー、メダム。ご乗車中大声にて失敬。私は仕事がなく、家には子が五人もいて、養わなくてはいけませんが、何卒お食事券でも、数ユーロでもいいから、お恵みを。」という類のものである。

違うタイプの乞食もいる。
パリのメトロ14番線には、これを所場にする足のない男がいて、車両の床を滑りながら金を求めて最前列と最後尾を往復する。そして、全身ケロイドの男乞食も14番線でよく見かける。

以前僕とご近所さんであった、あるヒゲのシェフがいて、シェフのご長男は、メトロで彼を見て怖くなってしまい、メトロに乗るのがトラウマになっていたが、子供は確かに怖くなってしまうと思う。

そして、小銭を恵む人々を観察すると、だいたい移民や下層民である。
やはり、彼らもフランス社会で苦しい思いを抱いていることは確かで、決して嫌味にならない同情を物乞いにかけていることは明らかである。

一方、白人はあまり恵んでいないし、僕はある理由からあげない。

僕は、お祝い金や子供にお小遣いをあげるなどということとは別に、見知らぬ間柄においては、行為の対価として金は授受されるべきであると思っている。仮に、靴が異様に汚れるフランスにあって、靴でも磨きましょうかとやってくれるのであれば、喜んで数ユーロでお願いしたい。

彼らが靴磨きさえすれば、一日いくらでも稼げるはずだ。一人5ユーロとすれば、一日五千円などゆうに稼げる。
しかし、ただ、金くれと言って回るのも虫が良すぎるし、問題は彼らに金を施しても、確実にその金は酒に消えるのである。
乞食のビールといわれているオランダ製の10%ほどもアルコール度数がある、醸造アルコールギンギンのビールが彼らの主食であることは多く、この結果を予想しながら、金は恵みたくない。
そして、この高福祉のフランスにあって、乞食は社会保障で自立できるはずなのに、乞食のままでとどまっているのだから、靴磨きぐらいしないと金はやらない。
これは冷徹であるとしても、僕の価値観である。

日本の公園や河原に小屋をかけるホームレスとて、健康である限りは、山谷や釜ヶ崎に行くなり、生活保護を受けられる訳だから、自主選択なのであろうが、やはりフランスの乞食も自主選択から乞食になっている。

かつて僕が住んだパリ13区に、華僑の乞食がいた。
アパルトマンの地下駐車場の入口にダンボールと布団で小屋をかけた物静かな男は、僕がスーパーに行く度にそこにいて、物乞いをし、時に慈善団体の支援を受けながら暮らしていた。

ある日そこを通ると、その男の追悼文が張り出され、華僑の仏教式の蝋燭が立てられていた。
乞食は死んだのである。
冬場だから凍死でもしたのであろうか。

こうして、人間というものが運命に則って行う選択は多様であり、フランスは日本にも増して、この運命の差があからさまに見える。

フォンテーヌブローのカトリックは一家団欒の夕餉を囲み、非カトリックのブルジョワは飲みに出る。ほぼ唯一の飲みに出るアジア人たる日本人の僕が行きつけの店にいる。
近隣の在から、田舎者の匂いをプンプンさせた一団がアイリッシュパブにたむろすれば、クリストフがいつものようにバーの軒先を転々と物乞いする。

Où est Charlie ? シャルリーはどこ?
僕は日本で医者に行くと、恥ずかしげもなく、児童書コーナからウォーリーを探せを引っ張り出して熱中する。
フランスでは、シャルリーに名前が変わっていて、いかにもフランスであるが、このシャルリーはどこ?はやはり子供の暇つぶしの決定版である。

しかし、フランスを舞台にシャルリーはどこ?は描けないぐらい、フランスにおいて、人間の縮図というものは、明白な色合いの違いとともに浮かび上がっている。

池に錦鯉しかいなければ、ウォーリーが沈んでいても見つけにくい。しかし、いろいろな鯉が入り乱れていれば、見つけやすい。

そんなるつぼのフランスである。

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