ノートルダム炎上 〜ノートルダム一件に見る、現代フランス人の社会と精神性〜

ノートルダムが燃えた。

並ぶのが嫌いな僕は、ノートルダムに入ったこともなければエッフェル塔に登ったこともない。
ただし、年がら年中そこに当たり前にあるものが無くなるというものは、いささか無常を感じさせる。

さて、世界中をこのニュースが駆け巡った時、FacebookなどのSNS上では、様々な人がノートルダムの行く末を見守り、世界中の多くの人が、これに関心を抱いていた。
何かノートルダムに思い入れがあるような人は、尚のことである。

しかし、テロの時もそうであったし、黄色いベスト運動にせよそうであるが、事件や社会的に大きな出来事があっても、それと同時に、人々の普通の暮らしは絶え間なく営まれていく。
そして、ある一つの現象を第三者として遠くから見るときに、表面だけを切り取って、さらに適切に表現を試みるなら、切り取られた表面だけの情報で、ある出来事の全てを分かった気になってはならないと今回は強く思わされた。

燃えている同時間に、僕はFacebookである面白いフランス在住の知人とやりとりをしていたが、彼は早速、Facebook上で、ノートルダムが炎上したことに対して、ニコニコマークを押したり、書き込みをして喜ぶフランスの人々の現在進行形のリストアップページをシェアしてくれ、僕はこの現象を非常に興味深く感じた。

そして、僕はノートルダムが燃えた15日の夜、行きつけのバーにいた。
そこで僕は、ノートルダムが燃えたということにフランス人たちがどうリアクションをするのか知りたかったから、行きつけの客の女の子とバーテンに、燃えたねと話しかけてみた。しかし、彼らは、さっきからテレビの何をつけても、そればっかりで嫌なことと言い始めたのである。そして、テロ説を唱える人も当初はいたから一笑に付していた。

この白人フランス人2人は、ノートルダムが燃えたことへの無念さえ示さずに、僕と淡々と楽しく飲んだのである。

2回目のテロの時は、さすがに人が死んだり、火災ではなくテロというものであっただけに、流石に社会がどんと暗くなったが、今回のノートルダムの一件では、そこまで、パリやパリ近郊がどんよりした空気になったとは思えない。

無論カトリックの人や教会芸術の愛好家からしたら、悲しい気持ちになるであろうが、市民の多くが、落胆の顔すら見せず、通常運転の日々の生活を営んでいる。

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