ノートルダム炎上 〜ノートルダム一件に見る、現代フランス人の社会と精神性〜

ちなみにテレ朝など日本の大手メディアのかい摘み報道で映し出された人々が、カトリックの人たちである証拠は、別のニュースをわざわざ読む必要もなくわかるけれども、エビデンスとしてあげるならフランスの大手メディアが発したこちらのニュースで、カトリックの人たちと明記されている。

こうすると、幕末の新聞がしたように、海外メディアが発する情報を翻訳して流した方が、わざわざ自分で日本の大手メディアが動画を撮りに行くよりましであるということが、露見してしまう。
海外支局はなんのためなのか、情けない。

きっと、外国に土着し、現地の言葉で外国を知り、真にその外国を理解する人が、日本の大手メディアの中にいないのであろう。

また、敬虔な信者かは知らないが、なぜか遅く12歳でカトリックで洗礼済みのマクロン大統領が、公的にカトリックの人に心を寄せると言ったことで、これは政教分離違反だという声もある。
あるいは、マクロンが「フランスの美術」として、ノートルダム再建への国庫出動を言ったことに対し、キリスト教原理主義者は、マクロンがノートルダムを「宗教美術」でなく、「フランスの美術」と言ったことに激怒している。

そんないちゃもんをつける人間は、宗教右派や、政治的左派含めて少数派だが、何につけてもフランスは難儀な国である。

そして、フランスには、カトリックから距離をとって、カトリックに思い入れのない層でなくとも、イスラム教の移民や、無神論者など、反カトリックの人がたくさんいて、郊外で、ノートルダムの炎上を祝ったり、喜びのツイッターやFacebookのコメントなど、荒れて荒れてすごいのである。

これはカトリック強硬原理主義者のサイトだから、あまり肩入りする気もないが、一応典拠としてあげておく。

確かに、僕も日本の伝統主義者として、古くからパリを照らしたノートルダム聖堂が炎上したことに対して、残念であると思っている。物悲しい。

しかし、それより残念なのが、井伊大老が国を開いて150年以上も経っているのに、いまやネットがあるにも関わらず、日本人は、海外の現地の実際の雰囲気や情報にわずかであっても触れることができないことにある。
語学力と、発信できる人間の圧倒的不足と、日本における西洋型メディアのあり方が全く成熟しなかったために、日本人は表層の情報からだけで物事を判断することになったり、現地の生の声を知らずに、一事が万事物事を知った気になってしまう。

今回のことで言えば、日本人は、「みんなフランス人が讃美歌歌って悲しみに暮れて。」などと誤解する危険性が極めて高い。

さて、僕の下手なフランス語を聞けば、皆がドン引きすると思うが、僕は完全にフランス語ができるわけでもなく、まだまだ甘ちゃんで、頭も悪いから、そこまで分析力を備えているわけではない。
しかし、少なくとも、酒を片手に、現地のフランス人と関わり、あれこれ話をして、見聞だけはしている。

もうじき、大手メディアが情報の発信を独占する時代が終わることは確実である。
次のステップは、少しでも、なんとか現地の言葉を話して、現地社会に潜って情報を取り、日本の国際情勢の判断に寄与しようとトライする人間が、様々な思想、様々な角度の切り口から増えることに尽きる。

また、いつまでこのネット社会が続くかはわからないが、今はSNS、インスタで、フリーランスの情報発信が誰でもできる新時代である。

もちろん発信することには責任が伴う。
また、文化が素敵などというレベルのものではなく、情報の発信と分析が社会的なものになればなるほど、批判もされる。
個性を出せば出すほど、アイデンティティや思想の色というのはどうしても出てくるから、場合によっては人から恨まれて叩かれたり殺されることもないとは言えない。
しかし、責任の所在は、発信者一人にあると明確にすべきで、匿名ではなく、名を公表するのが筋と僕は思っている。

僕も、SNSとインスタを駆使して、日本の人々にわずかばかりの生のフランスの情報のおすそ分けをして、フランスの真実にお触れいただくとか、そこから日本の価値を各自お考えいただける具材になるような発信ができればいいなと思いながらの、今日この頃である。

偉そうに失礼いたしました。

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