パリに降り立った日に -先進とは、自由とは-

2012年9月13日、朝7時、パリの上空から外を見ていた。
まだ、暗い朝霧の中、空から見るパリは平坦である。そして、光がない。
そんなことさえ僕には驚きであった。 日本で純粋培養され、井の中の蛙であった僕にとって、政治経済の中心たる首都のイメージは東京しかなかった。
だから、こんなにも暗い首都があるということに驚嘆した。

 
成田羽田を飛び立つとき、眼下に見える東京は当たり前のこととして壮大で、機械的である。
立ち並ぶ高層ビル、そして東京湾に隣接した工業地帯は、飛行機が雲海に身を隠すまでありありと見える。 東京湾の海面にはたくさんの大きな船が行き交う。夜間ならたくさんの光がある。東京に暗闇というものは存在し得ない。
パリの機上からは、そびえるビル群は見受けられない。そのあまりの平坦さや光のなさは、日本の地方空港のようにも思える。空港の照明は薄暗い。この薄暗さが僕の考える「先進的」「近代的」「現代的」という常識をゆっくりと覆しはじめる。

 

 

「Bonjour, Monsieur!」と空港職員の女性に入国審査場へ導かれる。
ガラス窓の内側のアラブ系の入国管理官は、僕の挨拶を無視し、ページをがさつにめくり入国印を押す。 荷を取り、オペラ座行きのバスに乗る。初秋のパリは実に肌寒く曇天である。高速道路に落書きが多いこと、そして、道が薄汚いことに目がいく。

 
高速を降り、バスはパリ市内へ北から入った。寂れた工場の煙突から不健康そうな煙があがる。やつれた人たちはパンをかじりながら足早に工場へ入っていく。そして、どこの壁にも落書き。明らかな黒人街を走る。民族衣装を着た肥えたおっかさんが子供の手を引いて急いでいる。アパルトマンというより団地という方が似合う建物の入り口は、錆びた大きな鉄格子で硬く閉ざされている。牢屋のような団地が多いことは、すなわち治安が悪いということだと思いをはせる。

 
モンマルトル近くを走る。中学校の門前では生徒たちが煙草を吹かしている。周りの大人たちはそれを咎めはしない。自由である。どこを見渡しても汚れきったポンコツの車ばかり。路上駐車で道の両側は溢れている。無秩序という自由が、フランス共和国が目指す自由であろうか。バスは揺れに揺れた。アスファルトの舗装が雑であるから。

 

東京。完全無欠の安全や清潔が保たれている訳ではない。
しかし、裏の世界や貧困はものの見事に隠されて、表面上は完璧に近い清潔を維持している。パリ。不潔、貧困がありのままに見える。物騒な区域には物騒な空気が漂っている。
東京、パリ、ロンドン、ニューヨーク。人はよくこれらの首都を並べ「先進国の首都」というカタログを作る。
しかし、僕にとって、東京とパリは、首都であり経済の中心という二つの共通点を除いて、決してひっくるめることのできない全く別の存在である。

 
「先進国」たちは「先進」であると自負し、そう名乗る。しかし、「先進」とはいっても何が「先進」なのか。何を以って「先進」とするのか。「先進」という言葉を自称しながら、いくつかの国家を括ることが、いかに実体なき空虚なのか。

 
フランスは「先進」ではない。 こんなことを思いながらバスに揺られ続ける。バスのシートは硬い。日本であればクレームが来る。

 

しかし、もうフランスは面白い。何より、懐が深い。彼らは、確かに、我々異邦人に対して、空港からの道すがら、不潔、物騒、あるいは貧困を披露した。

 

噂では、平壌空港へ離着陸する際は、旅客に眼下を見下ろさせず、且つ平壌の良いところだけが見えるように、回りながら離着陸をするそうだ。そして、北朝鮮は、地上でも不都合なところは、異邦人の目に触れないようにするらしい。これは見栄である。フランス人はプライドが高いとよく言われる。しかし、僕はこの車窓から、フランス人は少なくとも見栄っ張りではないことを感じ取る。フランスの文化を誇る愛国の心は、何が何でも見栄を張る「偏屈なプライド」ではないのだ。 パリに降り立った日、僕はそう感じた。

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