革命記念日に思う

2019年7月13日夕刻。
フォンテーヌブローの共和国広場では、翌日の革命記念の式典のため仮設ステージが建てられ、近隣の店々の軒先も巻き込みながら三つのフランスの色がはためく。
その横の教会の鐘は前近代のフランスの栄華を惜しむかのように18時を告げた。

アンリ4世の妃マリー・ドゥ・メディシスの注文に基づいてこの教会が完成したのは1614年である。日本では大坂冬の陣が起き、いよいよ豊臣家が進退窮まる頃である。
この教会は江戸の終わりの1868年まで拡張工事が続けられたが、大きなのっぽの古時計は今も時を刻み続け、時の鐘は今も時を告げる。
この古時計も鐘も、1814年4月11日に、その二年前のロシア侵攻における冬将軍の敗北が響き、戦に負けたナポレオンが締結させられたフォンテーヌブロー条約に基づいて廃帝となり、20日に居城フォンテーヌブローからエルバ島の小領主としてフランス本土を去った姿も目撃している。
そして、去年の9月からは、ナポレオンと全く同身長の五尺六寸の日本人の小男を毎日のように見下ろしている。

また今年も革命記念日の7月14日がやってくる。

いつものことながら、僕はこの日を嬉しさとは遠く離れ、もやもやした気持ちで迎える。

僕はこれがあまりに陳腐化されたステレオタイプの薄っぺらいイメージであると腹をたてるが、日本の「ゲイシャ・フジヤマ」は確かに今も存在する文化と山である。
もし、芸者が日本から一人もいなくなり、富士山も大噴火して木っ端微塵に砕け散ったとするならば、悲嘆にくれるに違いない。しかし、こうした、薄っぺらくとも、国柄を端的に表せる文化が今もあるということは実に貴重なことであるとも思う。

フランスを代表するイメージはフランス人にとっても、世界中の現代人にとっても、食文化などの無形のものを除けば、全て失われたものである。フランスにはモンブランがあるではないかといっても、これはモンテビアンコでもありイタリアと共有する山であるから、フランスを代表できない。結局、王様、宮殿、教会に代表される、フランスのなんとも言えない華々しさは、老中首座の松平定信が幕政を改革していた寛政元年は西暦1789年の7月14日を境に全て過去のものとして建物だけを残し崩れ去ったのである。

この日の午後1時、暴徒化した民衆がバスティーユ監獄を襲撃し、この事態は収拾不能な終わりの見えない行動的事象として共和制のうねりとともに拡大し続け、王侯貴族やカトリックの全てをフランス社会から取り除いていった。

しかし物事というのは終わることが難しい。
人間とてこの世に生まれ落ちたが最後、通常は心の臓の止まる自然死を待つしかない。自殺をすれば自分から積極的に自分という一人間を終わらせることになる。或いは殺されて終わるというはかない終わりがある。
世の中の万事も終わりは人間のそれと同じである。

幕末とフランス革命をこれになぞらえてみる。

幕末に蒸気船が入港したことで、帆船の軍艦は旧式なものとしての存在を許されながら、自然に心の臓を止め消滅していった。
幕府そのものである慶喜公は二段階において幕府を自殺させた。
一つ目は慶應3年10月14日申請、15日認可の大政奉還。
二つ目は慶應3年10月24日申請、12月9日認可の将軍職廃絶、幕府廃止である。
この12月9日の出来事は王政復古の大号令として知られるが、この慶喜公による将軍と幕府の自殺行為のとばっちりで、同時に朝廷で殺害されたものがある。摂関家である。
これは新時代にイニシアティブを取りたくて仕方がないが、朝廷の古来よりの仕来りをして、このままではどうしても朝廷のリーダーにはなれない岩倉具視などの公家が、意図的に幕府の自殺に乗じて、摂政関白を廃止して殺してしまった。
そして、幕府が自殺したといえども、徳川家は自殺していないから幕府の旧構成員は大量に残っている。旗本御家人や諸大名とその家臣たちは未だ健在で、徳川家への恩顧が強いものが多い。故に、この自殺した幕府の死体がまかり間違えって蘇らないように、武士の情けも忘れ、薩長はこの亡骸を切り刻んだのである。

ではフランス革命における王政は自然死か自殺か他殺かのどれかと言えば、他殺である。
王侯貴族の専横を倒すべく立ち上がった民衆は、王侯貴族や王政国家に対する怒りを行動とともに増幅させバスティーユを制圧する。その後は革命がフランス全土に広がり、民衆に歩み寄りを見せるルイ16世とこれを支持する貴族、そしてこれに反対する貴族との間に軋轢が生まれ収拾がつかなくなる。
新議会が制定され、ヨーロッパを巻き込むフランス革命戦争が勃発し、1791年の9月21日には第一共和制の樹立に伴い王政が廃止される。そして国王の地位のみ残したルイ16世であったが革命は収まらず、逃亡も失敗し幽閉されたのち、民意という流れに押された裁判を経て、1793年の1月14日、コンコルド広場において妃マリー・アントワネットと処刑された。ここに王政はひとまず国王夫妻の肉体もろとも殺されたのである。

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