祈りが見えるイタリア・祈りが見えないフランス

トリエステの夕刻6時前には教会の鐘が鳴る。
海風に乗る鐘の音に誘われて、僕は丘の上のあるカトリック教会に入った。

この街はスラヴへの玄関口であるイタリア北部最東端の街であるから、正教会とカトリックの二つの宗派の教会がいくつもある。

正教会の教会へはスロヴェニアで行った上に、ここはイタリアということで、カトリックの選択をとった。

扉は開いている。

信者は用意よろしく、すでに着席し、オルガンの伴奏に合わせ賛美歌を歌っていた。

司祭は香を焚く。
祭壇から教会の前方にかけて、煙が漂う。

香の文化の日本人をして、このカトリックの煙のハーブがかった匂いは、心地のよいものである。

トリエステの街では、他のイタリアの街々と同じように、カトリックの僧侶やシスターが、袈裟や修道服を着て歩いているのに出くわすことがある。
あるいは、時に、労働者や食堂の親爺のはだけた胸には、大きな金の十字架のネックレスがかかり、彼らの敬虔な信仰心を主張している。

勿論現代の欧州において、一神教はその戒律をして現代社会に馴染まず、後退を続けている。
しかし、年配者を中心にカトリックの信仰が根付いている姿を見る時に、僕はイタリアの伝統の香りを感じる。

片や、フランスというのは徹底した政教分離の国である。

シスターというのは、教会の近隣か内部でしか見られない。僧侶が袈裟のまま街を歩く姿にも出くわさない。

公共の場、すなわち表で宗教的なものを見せてはいけないことを徹底するフランスでは、例えば、学校に十字架の首飾りをしてきてはいけない。イスラムのヒジャブやターバンを着けてきてはいけない。ユダヤのキッパを着けてきてはいけない。など、様々な禁止事項がある。
僕の大学の生徒には、一人ヒジャブの女の子がいるが、そういう例外を除いては皆この法律を遵守している。
カトリックの生徒は、今時珍しい、慎ましいコンサヴァティヴなファッションをしているから、なんとなく分かる。しかし、それでも、露骨な十字架の首飾りなどは見せていない。

こうしたフランスでは、やはり表で自分の信仰を表明することはためらわれる一方、イスラム教徒やユダヤ人は伝統を遵守した服装をし、逆にアピールすることもある。
そのため、カトリックの人ばかりが信仰を隠しているという見方ができる。
カトリックの儀式の際には、教会の扉は堅く閉じられ、万人には開かれていない。
ミサに入ることもできるが、開放感がないので、入りにくい。

イタリアの教会は、儀式の際でも開放的ですっと入れる。

僕は十字の切り方も知らないが、席に着き、式典における起立着席ぐらいは、信者の見様見真似をしてこれに倣う。

信者は賛美歌や、司祭のセリフに合わせて言う、「アーメン」や「ハレルヤ」のタイミングを知っているから、こういうことはさすがに真似できない。
只、異教徒として、彼らに敬意を払うのみである。

しかし、信仰を持つ人間とは、自然である。
そして、救われた表情をしている。

自分の信仰すべき神や仏にすがり、何らかの神秘的な霊験をして救われていると感じる人々は、精神的に安定している故、いい人生であろう。

そしてその信仰が新興のものではなく、先祖と同じことを反復する信仰である場合、尚のこと所作も精神も、民族や先祖代々の反復に裏打ちされた安定を有する。

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